ジブラルタル包囲戦の一覧
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本稿では、歴史上14度にわたり繰り返されてきたジブラルタル包囲戦 (英語: Siege of Gibraltar)を列挙する。ジブラルタル(現イギリス領)はわずか長さ6キロメートル (3.7 mi)、幅1キロメートル (0.62 mi)に過ぎない半島に位置しているが、イベリア半島の南岸で地中海の西側の入り口をコントロールできる、戦略上きわめて重要な地点である。町名の由来となった対岸の北アフリカ・モロッコを望むジブラルタル海峡を抑える地理的重要性と、天然の要害といえる険しい地形ゆえに、ジブラルタルはヨーロッパでも特に多くの戦闘、包囲戦が繰り返される地となった[1][2]。
- ^ Fa & Finlayson, pp. 4–5.
- ^ Rose, p. 95.
- ^ Hills, p. 95.
- ^ Dennis, pp. 7–8
- ^ Fa & Finlayson, p. 5.
- ^ Jackson, p. 29.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o Fa & Finlayson, p. 9.
- ^ Hills, p. 96.
- ^ Fa & Finlayson, pp. 9, 20–22.
- ^ Jackson, p. 93.
- ^ Jackson, p. 111.
- ^ Jackson, pp. 115–120.
- ^ Jackson, p. 124.
- ^ Jackson, p. 132.
- ^ Jackson, p. 141.
- ^ Jackson, p. 14.
- ^ Jackson, p. 149–150.
- ^ Jackson, p. 152–153.
- ^ a b Jackson, pp. 177–178.
- ^ Finlayson, p. 10.
- ^ Jackson, p. 181.
- ^ Jackson p. 317.
- ^ Jackson, pp. 39–40.
- ^ Hills, pp. 48–49.
- ^ a b Jackson, p. 42.
- ^ a b Hills, p. 54.
- ^ Jackson, pp. 43–44.
- ^ Hills, pp. 56–59.
- ^ Jackson, pp. 44–46.
- ^ Hills, p. 60–62.
- ^ Jackson, pp. 52–53.
- ^ Hills, p. 62–66.
- ^ Jackson, pp. 54–56.
- ^ a b Hills, pp. 88–89.
- ^ Jackson, p. 56.
- ^ Jackson, pp. 57–60.
- ^ Hills, pp. 91–95.
- ^ Jackson, pp. 63–65.
- ^ Hills, pp. 98–99.
- ^ Jackson, pp. 71–73.
- ^ Hills, pp. 102–105.
- ^ Jackson, pp. 90–91.
- ^ Jackson, pp. 94–99.
- ^ Hills, pp. 168–175.
- ^ Jackson, pp. 103–111.
- ^ Hills, pp. 184–200.
- ^ a b Fa & Finlayson, p. 10.
- ^ Hills, p. 276.
- ^ Jackson, p. 113.
- ^ Jackson, pp. 123–132.
- ^ Hills, pp. 262–276.
- ^ Jackson, p. 150.
- ^ Jackson, pp. 152–153.
- ^ Jackson, p. 159.
- ^ Jackson, p. 164.
- 1 ジブラルタル包囲戦の一覧とは
- 2 ジブラルタル包囲戦の一覧の概要
- 3 脚注
ジブラルタル包囲戦
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「英西戦争 (1727年-1729年)」の記事における「ジブラルタル包囲戦」の解説
1727年初、フェリペ5世はスペイン軍の首脳部にジブラルタルについて助言を求めた。1704年から1705年にかけてのジブラルタル包囲戦(英語版)に参加したビリャダリアス侯爵(英語版)は以前、制海権がない限り攻撃すべきではないと進言していたが、スペイン海軍は1718年のパッサロ岬の海戦以降、貧弱なままだった。今回も軍の首脳部のほとんどが攻撃に反対したが、デ・ラス・トーレス伯爵(英語版)はジブラルタル占領が可能であると考えたため、彼はサン・ロケで歩兵18,500、騎兵700、大砲100門の指揮を執った。スペイン軍の内訳はオランダ人、イタリア人、コルシカ人、シチリア人、アイルランド人、フランス人、スイス人など計19個大隊と様々であり、その多くがマラガ県の出身だった。そのうちスペインの正規軍であったのは10個大隊だけだった。大砲はカディスの要塞から運ばれてきたが、その輸送が困難を極めた。デ・ラス・トーレス伯爵は平民3千人に塹壕掘りとランパート築きを命じたが、冬季の気候と補給の不足によりスペイン軍の状況は極めて厳しいものとなった。イギリス側では包囲戦の準備が数か月前から進められており、チャールズ・ウェージャー提督率いる艦隊がイギリスから派遣されてジブラルタルを支援した。新しく任命されたジブラルタル要塞の指揮官ジャスパー・クレイトン(英語版)将軍のほか、イギリス艦隊には3個連隊の一部が乗船しており、すでに上陸していた4個連隊を増援していた。そのため、イギリスの軍勢は合計3,206人だった。 包囲戦は1727年2月11日に始まったが、スペイン軍の不利がすぐに明らかになった。イギリス艦隊の妨害により侵攻に使える通路は狭い道一本であり、しかもその道は要塞からの砲火に晒されていた。そのため、デ・ラス・トーレス伯爵は砲撃だけで要塞を破壊して、続いて歩兵で強襲を仕掛けることにした。スペイン軍はまず塹壕を掘って要塞に接近した。このときの戦闘は砲撃戦のほかには哨戒の小競り合いのみだった。3月24日にはスペイン軍の前進により要塞が大砲の射程に入ったため、デ・ラス・トーレス伯爵は砲撃の開始を命じた。10日間続いた砲撃でイギリスの防御工事が大きく損傷し、要塞内にいる全ての平民の助けを借りても修復できなかった。しかし、天候が4月2日より悪くなったことで両軍とも行動を阻害された。このとき、2.5個連隊の増援を受けたことで駐留軍が5,481人に膨れ上がった。デ・ラス・トーレス伯爵は5月7日から20日にかけて2度目の砲撃を敢行したが、その後は火薬と砲弾の補給が追い付かなかった。外交交渉により直接対決が諦められ、1727年6月23日にはジブラルタルをめぐる停戦協定が締結された。 包囲は17週間ほど続いた。艦隊の保護もありイギリスの駐留軍は補給を受け取ることができたが、スペイン軍の補給は追い付かなかった。このことは脱走者の数にも表れ、4月16日に捕虜交換が行ったときにはイギリス人捕虜が24人だったのに対しスペイン人捕虜が400人もいた。イギリス軍にとってより厳しい問題はアルコール依存だった。イギリス軍の損害は死者107人、負傷208人、脱走17人で、スペイン軍の損害は死者700人、負傷825人、脱走875人だった。
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