ジェフリー・オブ・モンマス
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ジェフリー・オブ・モンマス(Geoffrey of Monmouth, ウェールズ語:Gruffudd ap Arthur または Sieffre o Fynwy, 1100年頃 - 1155年頃)は、中世イングランドのキリスト教聖職者、歴史家。アーサー王伝説の語り手の一人として知られる。著作のほとんどは歴史を題材としたロマンチックなフィクションである。
- ^ レイチェル・ブロムウィッチ(Rachel Bromwich)は、「MyrddinがMerlinに、ddがlに変化するのは奇妙だ」としている(Bromwich, Trioedd Ynys Prydein: The Welsh Triads, second edition [Cardiff: University of Wales, 1978], p. 472 n.1.)。
- ^ Thorpe, Kings of Britain pp. 14-19.
- ^ Kings of Britain, p. 17.
- ^ 後にシェイクスピアによる悲劇『リア王』で有名になった。
- ^ 後にシェイクスピアによる戯曲『シンベリン』で有名になった。
- ^ 43年のクラウディウス帝のブリテン島侵攻とは別の戦争。
- 1 ジェフリー・オブ・モンマスとは
- 2 ジェフリー・オブ・モンマスの概要
- 3 参考文献
- 4 外部リンク
ジェフリー・オブ・モンマス
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「アーサー王」の記事における「ジェフリー・オブ・モンマス」の解説
アーサーの生涯を最初に一つの物語にしたものはジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』である。1138年に完成したこの作品は伝説上のトロイ人の漂流者ブルートゥスから7世紀のウェールズ王カドワラダ(Cadwaladr)までのブリテンの諸王の歴史を空想的に、あるいは非現実的に記している。『ブリトン人の歴史』や『カンブリア年代記』と同じく、ジェフリーはアーサーをポスト・ローマ時代の人物としている。アーサーの父ユーサー、魔法使いの助言者マーリン、そしてアーサーの誕生物語(マーリンの魔法によってユーサーの敵ゴルロワ(Gorlois)に化けたユーサーがティンタジェル城でゴルロワの妻イグレインと同衾し、アーサーを妊娠する)が語られる。ユーサーが死んで15歳のアーサーがブリテン王位を継ぐと、『ブリトン人の歴史』で語られたような、バドニクス山の戦いを頂点とする数々の戦いを繰り広げる。アーサーはピクト人やスコット人を討伐し、アイルランド、アイスランド、オークニー諸島を征服し、大帝国を打ち建てる。12年の平穏の後にアーサーは再び帝国の拡張に着手し、ノルウェー、デンマーク、ガリア(フランス)を占領する。当時ガリアはローマ帝国に服していたため、アーサーは今度はローマ帝国と対峙することになる。帝王アーサーとカイウス(Caius, ケイ)、ベドゥエルス(Beduerus, ベディヴィア)、ガルガヌス(Gualguanus, ガウェイン)を初めとする戦士たちはガリアでローマ皇帝ルキウス・ティベリウスを破るが、ローマへの進軍を準備している時にアーサーはブリテン島の守りを委ねていた甥モドレドゥス(Modredus, モードレッド)がアーサーの妻ゲンフウアラ(Guenhuuara, グィネヴィア)と結婚し、王位を簒奪したことを聞き知る。アーサーはすぐにブリテンに帰還し、コーンウォールのカンブラム川(Camblam)でモドレドゥスを破り、殺害するが、アーサーは瀕死の重傷を負ってしまう。彼は血縁のコンスタンティンに王位を譲り、傷を癒すためにアヴァロンの島へ連れ去られる。アーサーはそこから二度と帰って来ることはなかったという。 この物語にジェフリーの創作がどれほど含まれていたかは現在でも議論されている。サクソン人との12の戦いは9世紀の『ブリトン人の歴史』から、カムランの戦いは『カンブリア年代記』からとられたのは確かとされる。アーサーのブリテン王という地位もジェフリー以前の『キルッフとオルウェン』や『ウェールズの三題詩』、各種聖人伝などに見られる伝承からとられたのかもしれない。加えて、ジェフリーの描くアーサーの多くの要素は『キルッフとオルウェン』に強い相似性が見られ、忠誠、名誉、巨人、贈与、寝盗り、魔法の品々などといったモチーフやテーマは両方に共通する。さらに、モンマスは『キルッフとオルウェン』から多くの人物名を引用している(サー・ケイはカイ、サー・ベディヴィアはベドウィル、サー・ガウェインはグアフメイ(Gwachmei)に相当する)。また、両者のヒロインの名称も似ており、グィネヴィアは「白い亡霊」という意味で、一方でオルウェンは「白い足跡」という意味である。アーサーの持ち物、縁者、側近の名前もジェフリー以前のウェールズの伝承から借用していると考えられる(カリブルヌス(Caliburunus, 後のエクスカリバー)はカレドブルフ(Caledfwlch)、グィネヴィアはグウェンフィヴァル(Gwenhwyfar)、ユーサーはウトゥル(Uthyr)にそれぞれ由来する)。このように名前や重要な出来事、称号が古来の伝承に由来する一方で、ブラインリー・ロバーツによるとアーサーに関する記述はジェフリーの創作であり、それ以前の典拠は存在しないという。たとえば、ジェフリーはウェールズのメドラウドを邪悪な人物、モドレドゥスに作りかえているが、ウェールズの伝承にはそのような否定的な人物像は16世紀になるまで存在しない。12世紀後半のニューバラのウィリアムによる「ジェフリーは常軌を逸した虚言への愛(inordinate love of lying)でもって(『列王史』を)書き上げたのだ」という意見が受け入れられてきたため、『ブリタニア列王史』はジェフリーの完全な創作物である、という意見に対する反論は現代に至るまであまり行われてこなかった。ジェフリー・アッシュは反対論者の一人で、ジェフリーの記述のいくつかは5世紀のブリトン人の王、リオタムス(Riothamus)という人物に関するすでに失われた資料に由来すると主張している。しかし、歴史家やケルト学者の多くは彼の意見を支持していない。 依拠した資料が存在したにせよしなかったにせよ、ジェフリーの『ブリタニア列王史』が大きな人気を得たことは否定しようがない。この作品の写本は200部以上現存していることが知られており、これは他の言語に訳されたものを除いた数字である。ウェールズ語版の『列王史』は約60部存在しており、最古のものは13世紀のものである。古い学説ではこれらのうちの数冊がラテン語の『列王史』の基になったとされた。この説は18世紀の古物蒐集家ルイス・モリスなどに支持されたが、現在の学界では否定されている。このような名声を得たことにより、『列王史』はのちの中世におけるアーサー王伝説の発展に多大な影響を与えた。『列王史』は決してのちのアーサー王ロマンスより前に書かれた唯一の作品だったわけではなかったが、『列王史』は後世に多くの要素を借用され、さらに発展を加えられていった(たとえばマーリンの物語とアーサーの最期など)。彼の生み出した枠組みに、多くの魔法や驚異に満ちあふれた数々の冒険が付け加えられていくことになるのである。
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