シーモア家とは? わかりやすく解説

シーモア家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/14 17:15 UTC 版)

シーモア家英語: Seymour family)は、イギリスの貴族の家系。


  1. ^ 森護 1987, p. 60-61.
  2. ^ a b c d e Heraldic Media Limited. “Somerset, Duke of (E, 1546/7)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年1月6日閲覧。
  3. ^ 森護 1987, p. 71.
  4. ^ a b Heraldic Media Limited. “Hertford, Marquess of (GB, 1793)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年1月6日閲覧。


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シーモア家

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サマセット公」の記事における「シーモア家」の解説

エドワード・シーモア初代)1506年ごろ - 1552年)は一介ナイト息子であったが、妹ジェーン・シーモア国王ヘンリー8世お手付きとなり、1537年3番目の王妃となってその間皇太子エドワードエドワード6世)を儲けたことで急速に出世するジェーン王妃となったのを機として1536年6月5日ビーチャム子爵Viscount Beauchamp)に叙され、ついで皇太子エドワード誕生を機として1537年10月18日ハートフォード伯爵Earl of Hertford)に叙された。そして1547年1月に甥エドワード6世9歳即位すると、護国卿1547年 - 1549年)として後見することになり、1547年2月16日サマセット公爵及びアッシュのシーモア男爵Baron Seymour of Hache)に叙せられた。しかし後に政敵ウォリック伯ジョン・ダドリー(後の初代ノーサンバーランド公)との政争敗れ1552年1月22日大逆罪で処刑され、爵位剥奪された。 その息子であるエドワード・シーモア(1539年1621年)は、1559年1月13日ハートフォード伯爵ビーチャム男爵Baron Beauchamp)を新規に与えられている。彼は1560年にキャサリン・グレイ(英語版)(ジェーン・グレイの妹)と秘密結婚したことで知られる。 その孫である第2代ハートフォード伯ウィリアム・シーモア(1588年-1660年)は、1640年6月3日ハートフォード侯爵Marquess of Hertford)に叙された。彼は王政復古直後1660年9月13日議会制定法によって曽祖父爵位サマセット公爵位とアッシュのシーモア男爵位の復権認められた。 長命だった2代公の死後子供たち長男次男・三男まで既に死去していたため、爵位三男の子ウィリアム・シーモア第3代)(1654-1671)が継承した。だがこの3代公も早世してしまったため、爵位叔父先代ウィリアムの四男)のジョン・シーモア1646年以前 - 1675年)が継承した1675年4代公が死去すると、ハートフォード侯爵位消滅したサマセット公爵位を継承したのは、4代公の従兄弟にあたる第3代トローブリッジのシーモア男爵英語版フランシス・シーモア1658年 - 1678年)である。しかし彼も1678年未婚のままイタリアで暗殺された。 爵位は弟のチャールズ・シーモア(第6代)(1662年 - 1748年)が継承する。彼は高慢な性格威張り散らしたので「高慢な公爵(The Proud Duke)」とあだ名された。政治的野心強かったが、トーリー党ホイッグ党双方こうもりをしていたため、どちらの党派からも信用されず、主馬頭英語版以上に出世しなかった。しかし彼は男子後継者のいない第11ノーサンバランド伯ジョスリン・パーシーの跡取娘エリザベス・パーシーと結婚してパーシー家広大な所領手にすることに成功したエリザベス死去すると彼は再婚したが、彼が1748年86歳で天寿を全うすると、爵位先妻エリザベスの子であるアルジャーノン・シーモア第7代)(1684年 - 1750年)が継承した7代公はそれ以前1722年1月21日母方家系伝わっていたパーシー男爵英語版)に叙せられていた。64歳当時にしては高齢サマセット公爵位を継承したが、その時点で彼の長男死去しており、男子爵位継承者が残っていなかった。そこで彼は翌1749年所領の大分割行い、娘エリザベスとその婿ヒュー・スミソンに遺産多く与えた。それに合わせて同年10月2日には特別継承娘婿ヒュー・スミソンに継承可能なノーサンバランド伯ノーサンバーランド州におけるワークワース城のワークワース男爵Baron Warkworth, of Warkworth Castle in the County of Northumberland)に叙され、さらに同年10月3日に妹の子供のチャールズ・ウィンダム継承可能なイグリモント伯爵カンバーランド州におけるコッカマス城のコッカマス男爵(Baron Cockermouth, of Cockermouth Castle in the County of Cumberland)に叙せられた。 こうして1750年アルジャーノン亡くなると、残った所領ルールに従って継承された。ハートフォード伯爵位とビーチャム男爵位とトローブリッジのシーモア男爵位は消滅しサマセット公爵位は初代公爵さかのぼって分流である第6代ベリー・ポメロイ準男爵エドワード・シーモア第8代)が継承した8代公の死後爵位長男エドワード・シーモア第9代)(1717年 - 1792年)が継承したが、未婚のまま亡くなったために次男ウェッブ・シーモア第10代)(1718年 - 1793年)が継承した10代公も間もなく死去し爵位長男有名な数学者のエドワード・アドルファス・サンモール(第11代)(1775年 - 1855年)が継承する。彼は洗礼受けて名前をシーモアからサンモールSt. Maur)に変えているが、その後シーモアはしばし使われる1855年11代公が死去すると、爵位長男のエドワード・アドルファス・サンモール(第12代)(1804年 - 1885年)が継承する。彼は自分が単にサマセット公の子孫であるだけでなく、フランス旧家サンモール家の末裔にもあたると主張してヴィクトリア女王にその爵位求め1863年6月19日デヴォン州におけるベリー・ポメロイのサンモール伯爵(Earl St Maur, of Berry Pomeroy in the County of Devon)に叙せられた。この時以降長男エドワード・アドルファス・フェルディナンド・サンモールはサンモール伯を儀礼称号としている。 1885年12代公が81歳で死去した時、既に息子たち先立たれていたために、サンモール伯爵位は廃絶し一方サマセット公爵位は弟のアーチボルド・ヘンリー・アルジャーノン・サンモール(第13代)(1810年 - 1891年)が継承した。しかしこの際12代公は自分長男非嫡出子2人自分の娘3人に巨額財産残したため公爵家の財産散逸した13代公が死去するとその弟アルジャーノン・パーシー・バンクス・サンモール(第14代)(1813年 - 1894年)が継承した3年後アルジャーノン亡くなると、その息子のアルジャーノン・サンモール(第15代)(1846年 - 1923年)が爵位継承した1923年15代公が死去すると、彼に子供がいなかったために遠縁にあたるエドワード・ハミルトン・シーモア(第16代)(1860年 - 1931年)が爵位継承したエドワード第8代サマセット公末子の子孫であり、実に170年前に枝分かれした家系である。エドワード爵位息子のエバリン・フランシス・シーモア(第17代)(1882年 - 1954年)が継承しその子パーシー・ハミルトン・シーモア(第18代)(1910年 - 1984年)へと引き継がれた。 現在、サマセット公爵位は1952年生まれたジョン・マイケル・エドワード・シーモア(第19代)が保有している。また、法定推定相続人1982年生まれたシーモア男爵セバスチャン・シーモアである。 家訓は「義務による信頼(Foy Pour Devoir)」。所有邸宅は南デヴォンにあるベリー・ポメロイ(英語版)とサマセット・メイデン・ブラッドレイ(英語版)にあるブラッドレイ・ハウス(英語版)である。

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