義経=ジンギスカン説
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義経=ジンギスカン説(よしつね=ジンギスカンせつ)は、モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハン(チンギス・カンとも)と源義経は同一人物であるという仮説・伝説[注 1]。
注釈
- ^ 「ジンギスカン」は明治から昭和期の歴史的呼称で、漢字表記「成吉思汗」に対する当時の発音表記。
- ^ チンギス・ハン宣言は1206年でモンゴル中央高原で、テムジンの第一回めのテムジン・ハーンの宣言は1189年頃と言われている。
- ^ 星野恒「源義経ノ話」23頁では、義経再生数は7回とされている。
- ^ 寿都郡寿都町の弁慶岬のこと。すでに「元禄国絵図」に「弁慶岬」とあり、『津軽一統志』巻10之下「松前より上攘夷地迄所村」には、「一、弁慶<一書に弁慶山という。船澗有り>」という記事が見え船溜まりがあったことが判る。地名についてはアイヌ語の「ベキッヘウ」で熊の頸椎の形状に似ることや、「ペンケ=ペルケイで破れた(裂けた)所の意などいう説がある(山田秀三著『北海道の地名』)。
- ^ 文献的には幕府が林家に命じて寛文10年(1670年)に成立した『本朝通鑑』続編巻79に「俗伝」として義経は平泉で死なず蝦夷に渡ったとするのが初出である(菊池勇夫『幕藩体制と蝦夷地』雄山閣出版、1984年)。
- ^ a b 寛永20年(1643年)、越前国三国浦新保村(現・福井県坂井市三国町新保)の商船が韃靼に漂着、商人竹内藤右衛門ら58名が北京・朝鮮経由で帰国した事件。彼らは奴児干で義経と弁慶を描いたような札が門々に貼られていたのを見たとされる。『韃靼漂流記』という書名で流布し、新井白石など当時の知識人が興味を示した。
- ^ 寛永10年(1633年)流布本と寛永12年(1635年)流布本が知られる。
- ^ 義経伝説に関しては、室町期から『義経記』がもて囃され、奥州で泰衡に討たれた後、北国に逃亡したという一種の貴種流離譚が流布していた(高橋富雄『義経伝説』中公新書1966年)。それが同時期成立とされる『御曹司島渡』(日本古典文学大系『御伽草子』所収、岩波書店、1958年)と結びつき、近世初頭には、所謂義経入夷伝説が形成されたと考えられている。
- ^ a b 映画『モンゴル』ではテムジンの10年間の空白を敵に捕らえられ入牢獄していたとして描かれている。
- ^ 但し、遊牧騎馬民族国家の君主候補者は、最初の君主を輩出した支配・中核氏族の成員に限定される、という原則が形成されていると記している(騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ 92-94頁)。
- ^ 沢田源内が金史別本の偽撰者と推定されたのは明治になってからで、後述のように異説もある。(『義経伝説と日本人』, p. 108)
- ^ 加藤謙斎:1670-1724。江戸時代前期-中期の医師。寛文9年12月12日生。臨節子に医学を、浅見絅斎に儒学を、さらに稲生若水に本草学を、笠原雲渓に詩文を学ぶ。のち京都で開業。享保9年1月7日死去。56歳。三河出身。名は忠実。字は衛愚。別号に烏巣道人。著作に「病家示訓」など。
- ^ 星野恒「義経ノ話」によれば、「義行」への改名は義経自身によるものではなく「義経が御尋者になって居て、時の関白月輪殿下(九条兼実:引用者注)の息子良経(九条良経)と訓読が同じだから憚ると云ふので、関東から改めたのである、其れを義経がどうして知る訳は無い、たとひ知って居ても、其れを異国に迄参って唱へることは決してない、この一事にても其偽作なることが知れます」20頁。
- ^ 篠崎東海:1686‐1740。江戸中期の儒者。荻生徂徠門に出入りし、伊藤東涯や林家にも短期入門。名は維章、字は子文、通称金五。江戸呉服橋に塾を開いて経史を講義。また日本古典に精通し、多くの著述があり、国学史上に大きな貢献をした。著「和学弁」「故実拾要」「於乎止点図譜」など。(精選版 日本国語大辞典より)
- ^ 相原友直:1703-82。江戸時代中期の医師。元禄16年生。陸奥気仙郡の人。仙台で佐久間洞巌に儒学を、京都で後藤艮山、香川修庵に医学を学ぶ。仙台藩医を務めながら旧跡を調査した。天明2年1月21日死去。80歳。通称は三畏。著作に「平泉雑記」「平泉旧蹟志」「松島巡覧記」など。
- ^ 森村宗冬:1963年生まれ、長野県安曇野市出身。大東文化大学卒業後、私立高校教員を経て、執筆活動に入る。2013年から故郷に戻り活動。テレビ出演:NHKBSプレミアム「英雄たちの選択」2014年12月18日、「片岡愛之助の解明!歴史捜査 天才武将 源義経 最強伝説に迫る!」2015年6月4日。
- ^ 森長見:1742-94。江戸時代中期の国学者。寛保2年生まれ。讃岐多度津藩士。吟味方、小物成奉行。天明3年(1783年)国史、故実、時局等について随筆風の「国学忘貝」を著した。寛政6年11月26日死去。53歳。通称は助左衛門。号は広浜堂。
- ^ 現行本『大日本史』巻187列伝114が底本とした草稿は、宝永3年(1706年)成立で、撰者は神代鶴洞、安積澹泊が再検したもので、それ以前にも別の草稿があったとされるが現存していないという(但野正弘「水戸光圀における『源義経』論 : 鵯越の坂落しと弓流しの逸話から」『植草学園短期大学紀要』6-7巻、2006年)。
- ^ 地名・官号怪しく文章も拙く一目で見破った、という(『義経伝説と日本人』, p. 112)
- ^ 菊地勇夫氏及び秋田県立博物館・菅江真澄資料センターの考証による(補助解説資料(PDF)を参照)。
- ^ 原田信男が指摘したアイヌ語のベルケイを弁慶崎とする(ベルケイとヘンケルの違いはあるが地域差、アイヌ人によって多少異なって伝わる)
- ^ 『中央史檀』において金田一は、この偽書の流れをくむ説を唱える小谷部全一郎をドクトルとで呼び、アメリカで苦学して大学を出たことに敬服し、ヒーローと持ち上げてもいる。ただ、一般の義経説ばかり登用し正規の文献を全く考慮していないことに遺憾を覚え、小谷部の著作を批判した。しかし、小谷部とは学生時代に北海道で知己を得ていたことから、アイヌの伝承の聞書きをもとにした論稿『義経入夷伝説考』を小谷部に贈ってもいた。金田一は、当該伝説が大衆にとっていかに危険かを予測し、政治的プロパガンダとして利用された場合、まったく信じない者達の心の奥にイメージが埋め込まれることを危惧した。小谷部説に対する批判の傍ら「史論よりはむしろ、英雄伝説の圏内にいる古来の義経伝説の全容の一部を構成するもっとも典型的、最も入念な文献として興味がある」と旧知の小谷部に対し、若干配慮を見せている。北海道で知り合った当時、小谷部が娘の名前について「ヘブライ語ではイサは”女”という意味ですよ」と言ったのを聞き、金田一は「何とモノを信じ易い人なんだろう」と思ったと述懐している。『中央史檀』では他に、星野恒の所論をあげ、入夷説や清祖説は存在しないとした。
- ^ Conrad Malte-Brun: 1755-1826。デンマークのティステズ生まれ。地理学者、ジャーナリスト。 次男は、ビクター・アドルフ・マルテ・ブルン(地理学者)。インドシナは彼が名づけた。(英語版ウィキペディアより)
- ^ 『中国の旅行記』(ピエール・ベルジュロン Pierre Bergeron:?-1637による。原題『12、13、14、15世紀のアジア旅行記』。ローマ教皇インセント4世とフランス国王ルイ9世が派遣した使節・修道士の旅行記)の1247-52年から引用し、中国の朝廷に定着していた風俗習慣は日本国のそれを思い起こさせるもので、蒙古帝国建国されて初めてそうした風俗習慣が用いられるようになった、という(小シーボルト蝦夷見聞記 174頁)
- ^ 原田信男は確認は難しいとしている
- ^ 「現在でも」とあるのは小谷部生前の事で、実際には1924年の社会主義化により禁止される。その後、1989年の社会主義廃止により序々に復活している。しかしオボー祭は元々が国家ナーダム等と違って国家的行事では無く、地域単位の祭礼である
- ^ 国号は正しくは「元」ではなく「大元」。クビライ制定によるもので、その出典はクビライ自身が出した詔によって『易経』と特定されている。『元史』世祖本紀巻七 至元八年十一月乙亥(1271年12月18日)条の詔に、「可建國號曰大元、蓋取易經「乾元」之義。」とあり、『易経』巻一 乾 に「彖曰、大哉乾元。萬物資始。」とある。なお源氏の字義は「天皇家と同祖(源流)」
- ^ 鎌倉市は笹竜胆を源氏の正紋と認め、市章として使用している。『鎌倉事典』白井詠二編(東京堂出版、1992年)、『図説鎌倉年表』鎌倉市(大塚功藝社、1989年)、「鎌倉広報第13号」1952年11月3日発行
- ^ 丘英夫:1934年大阪市生まれ。1957年大阪外国語大学中国語学科卒。音韻学専攻。96年まで丸紅等に勤務後、多くの歴史エッセイを発表。単行書『新ジンギスカンの謎』2003年、『義経はジンギスカンになった! その6つの根拠』2005年。
- ^ 高田実:1932年生まれ。東京教育大学大学院博士課程修了。同大学日本史研究室に勤務。専攻は中世日本の政治史・経済史。主要論文「日本中世村落史の研究」「平清盛」「10世紀の社会改革」など。
- ^ 中津は、義経誅すの記述が2度あるのは「二段報告」の方針を吾妻鑑が採っているからだと書く一方、テレビ番組では義経の死についてははっきりしないと主張した(義経不死伝説 Kindle の位置No.2784-2785)
- ^ 関は、室町期に繁栄した十三湊が反映された名前としている(関幸彦・1998)
- ^ 大町北造・横田正二・樋口忠次郎が共著者として協力。
- ^ 宮古市小山田に残るとされる「横山八幡宮記」は、寛政4年(1792年)に、宮古代官所下役の豊間根保によって書かれたものである。
- ^ 紫檀は、マメ科の常緑広葉樹の総称で、ローズウッド、パーロッサなどが「紫檀」として使用。主な産地はタイ、ラオス、ベトナム
- ^ 奥州藤原氏の財力を示すものとして、寺塔四十余宇・禅房三百余宇からなる中尊寺(初代清衡の創建)、堂塔四十余宇、禅房五百余宇から構成される毛越寺(2代基衡による再建)、宇治の平等院を模したという無量光院(3代・秀衡の創建)といった具合に歴代頭首が巨大な寺院を建立。
- ^ 『元朝秘史』によると、テムジンが父イェスゲイの手によって、後に彼の第一皇后となるコンギラト部族のデイ・セチェンの娘ボルテの許嫁となって、デイ・セチェンのもとに里子に出されたのは9歳の時であったという。『元朝秘史』ではイェスゲイがタタル部族民によって毒殺されたのはテムジンを里子に出したその帰りの道中であったとしている。一方、『元朝秘史』よりも完成が1世紀程早い『集史』「チンギス・ハン紀」によると、イェスゲイが死去した時、テムジンは13歳であったとしている。
- ^ 例えば、1221年にムカリの宮廷を訪れた南宋の孟珙撰『蒙韃備録』立國条には、「惟今韃主忒沒真者、其身魁偉而廣顙長髯、人物雄壯、所以異也。」とある。また、1260年にジューズジャーニーが著した『ナースィル史話(Ṭabaqāt-i Nāṣirī)』の第23章によるとホラーサーン侵攻時にチンギスは65歳であったが、「背が高く、力強く立派な体格で、顔には白くなった鬚を延ばし、極めて敏捷な猫の眼をしていた」と同様の特徴について述べられている。W.W. Bathold, "Chingiz-khān and the Mongols"Turkestan down to the Mongol invasion 3rd ed. (1st ed. London in 1928) with additional chapter...and with furthur addenda and corrigenda by C.E. Bosworth, London, 1968., p.459.
- ^ チンギス・ハーンの容姿については異論が多く、駐日モンゴル大使館蔵のチンギス・ハーン肖像については小柄な姿の彼が描かれており、大使館の所有物であることを考えると実際は小さかったのではないかと思われる(『チンギス・ハーン大モンゴル蒼き狼の覇業』47頁)
- ^ 例えば、「おそらく歴史上はじめて、たしかな人物とされるカイドゥ・カンの子孫をキヤトとよぶ。カイドゥはイェスゲイの五代まえの人である。(中略)(イェスゲイの)父もまた、バルタン・バアトルという。バルタン・バアトルは、カイドゥ・カンの嫡流カブル・カンの子ではあるものの、かれの兄弟には、まさしく、「カン」を名のるクトラ・カンがいる。つまり、バルタン・バアトル—イェスゲイ・バアトル—テムジンという血統は、名門の一員ではあるが、傍流といわざるをえない」「テムジンは、その血脈のうえからいえば、名門の末流といったていどの家柄に生まれたことになる。よくいわれるような、ばりばりの名流とはけっしていえない」と述べている。(杉山正明『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』角川選書、1992年、66-67頁)
- ^ 「ハイドゥの曾孫がハブル・ハーンで、モンゴル部族の最初のハーン(カガン)となった。ハブル・ハーンの孫がイェスゲイで、イェスゲイの息子がテムジン・チンギス・ハーンである」(岡田英弘『世界史の誕生【モンゴルの発展と伝統】』ちくま文庫、1999年、208頁
- ^ 例えば、『元朝秘史』第1巻48段,50段に「(48段)…カブル・カハンの子供は七人であった。長兄はオキン・バルカク、〔次は〕バルタン・バアトル」「(50段)バルタン・バアトルの子供は、モンケドゥ・キヤン、ネクン・タイシ、イェスゲイ・バアトル、ダリタイ・オッチギンの四人であった」とある[66]。また、同60段には「(60段)イェスゲイ・バアトルの〔妻〕ホエルン夫人からテムジン、カサル、カチウン、テムゲ、これら四人の子供が生まれた。(中略)テムジンが九歳になった時、ジョチ・カサルは七歳であった。カチウン・エルチは五歳であった。テムゲ・オッチギンは三歳であった(同78頁)」とある。また『集史』チンギス・ハン紀の第一部冒頭にも、「チンギズ・ハンの父はイェスゲイ・バハードゥルであり(pidar-i Chīnggīz Khān Yīsūgāī Bahādur)、(中略)チンギズ・ハンの祖父はバルタン・バハードゥルであり(Jadd-i Chīnggīz Khān Bartān Bahādur)、(中略)チンギズ・ハンの曾祖父はカブル・ハンであり(pidar-i suwum Qabul Khān)…」とある。(Jāmi` al-Tawārīkh, ed. Rawshan&Mūsavī, Tehran, vol. 1., 1994, p.292.)
- ^ 「(匈奴の)単于は、攣鞮(れんてい)という名の特定の家系からのみ選出された。一方、単于の后妃も特定の家系に限られていたが、こちらは呼衍(こえん)、蘭(らん)、須卜(すぼく)(後に丘林(きゅうりん)が加わる)という複数の姻戚民族があった」(林俊雄「古代騎馬遊牧民の活動」『アジアの歴史と文化 7【北アジア史】』(若松寛責任編集)同朋舎、東京角川書店、1999年4月、22頁。
- ^ 「「突厥」正統の可汗はすべて阿史那一門のものによって独占されており、また逆に、阿史那姓をもつものは、明らかにしうるかぎりは全部可汗の支裔であって、さきにあげた(A:遊牧国家「突厥」とは、阿史那氏の出身者を支配者、可汗とする国家であった。逆にいうなら、「突厥」の支配者である可汗の位に即くものは、阿史那一門のものに限られていた)の一般的事実、たてまえは、少なくとも「突厥」国家の存続中は、現実において完全に貫徹されていた。つまり、このような可汗位の相続における血統的制限の伝統は、「第一帝国」・「第二帝国」を通じて、「突厥」にあって根強くまもられていたのであり、この阿史那政権の没落は、そのまま「突厥」国家の瓦解にほかならなかったのである。そうだとすると、「突厥」の国家は、これ以前の「匈奴」の攣鞮(虚連題)氏について、またこれ以後の「迴紇(Uiγur)」の薬羅葛(Yaγlaqar)氏や「イェヘ-モンゴル-ウルス(Yeke Mongγol Ulus)」の Altan Uruγ について、それぞれ指摘されているように、一氏族阿史那氏の「家産」という性格をもっていたといえる」(護雅夫「突厥第一帝国におけるqaγan号の研究」『古代トルコ民族史研究 I』山川出版社、1967年3月、233頁。)
出典
- ^ a b c d 岩崎克己「シーボルトの成吉思汗即源義経説とその後世への影響」
- ^ a b 星野恒「源義経ノ話」 27-32頁
- ^ 『国民伝説類聚:前輯』, p. 351-379, 巡島説話の項.
- ^ 菊池勇夫「義経「蝦夷征伐」物語の生誕と機能 : 義経入夷伝説批判 (〈特集〉小数民族の諸問題)」『史苑』第42巻第1/2号、立教大学、1982年5月、85-101頁、CRID 1390009224785171968、doi:10.14992/00001192、ISSN 03869318。
- ^ a b c 義經傳説と文学
- ^ 『義経伝説と日本人』, p. 12.
- ^ 『義経伝説と日本人』, p. 72, 義経入夷渡満説書誌.
- ^ 『義経伝説と日本人』, p. 73.
- ^ 義経新詳細事典 228頁
- ^ 『義経伝説と為朝伝説』, p. 120.
- ^ 夷諺俗話 国書データベース
- ^ a b 『義経伝説と為朝伝説』, p. 122.
- ^ 本朝俗諺志 国書データベース
- ^ 梅原達治「通俗義経蝦夷軍談」『札幌大学総合論叢』第3巻、札幌大学、1997年3月、226-150頁、CRID 1050564287500449280。
- ^ a b 義経伝説を作った男
- ^ 義経不死伝説 (Kindle の位置No.2846-2847)
- ^ 源義経(角川・高田)11頁。義経の生立ちがまず不明で、喜瀬川の陣中で頼朝と対峙するまで、歴史に登場していないと記述。
- ^ 大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝 67頁。岡田英弘「"モンゴル民族"を創ったチンギス・ハーン」『チンギス・ハーン 大モンゴル”蒼き狼”の覇業』47頁
- ^ 義経不死伝説 (Kindle の位置No.2465-2468)
- ^ 滕英勝『通俗義経蝦夷軍談』.
- ^ 村上 1970, p. 255, 註9.
- ^ 星野恒「源義経ノ話」19-22頁(以上の偽書「金史別本」の経緯及び「国学忘貝」について紹介)
- ^ a b 『義経伝説と日本人』, p. 114
- ^ a b c 義経入夷渡満説書誌
- ^ 『義経伝説と日本人』, p. 118.
- ^ 『義経伝説と日本人』, p. 119.
- ^ a b c d 『義経伝説と為朝伝説』, p. 128
- ^ 国書刊行会本・本朝通鑑 第9巻 2700頁
- ^ 『義経伝説と日本人』, p. 112.
- ^ a b 小シーボルト蝦夷見聞記 172頁
- ^ 『義経伝説と為朝伝説』, p. 130.
- ^ 『義経伝説と為朝伝説』, p. 10.
- ^ 東韃地方紀行 169頁
- ^ 偽史冒険世界
- ^ 大森金五郎『歴史談その折々』育成会、1906年、185-186頁を参照。また、藤沢衛彦編『日本伝説叢書 明石の巻』日本伝説叢書刊行会、1918年、228-229頁には1905年2月4日付の神戸又新日報記事として、2月1日付読売新聞と同様の記事を所載。
- ^ Annales des voyages, de la géographie et de l'histoire. 第24巻、1814年、パリ刊
- ^ シーボルト「日本」、小シーボルト蝦夷見聞記 187頁
- ^ 小シーボルト蝦夷見聞記 67頁
- ^ シーボルト「日本」 187頁
- ^ 村上 1970.
- ^ シーボルト「日本」第一巻、287-289頁。岩崎克己「シーボルトの成吉思汗即義経説とその後世への影響」。『ムー』2009年8月号 総力特集=義経ジンギスカンの復活と天皇の国師
- ^ シーボルト「日本」 287頁
- ^ シーボルト「日本」、小シーボルト蝦夷見聞記
- ^ 義経入夷渡満説書誌 61頁(西周『末広の寿』1869年より)
- ^ The Mikado's Empire (皇国) 144頁
- ^ a b 『義経伝説と為朝伝説』, p. 196
- ^ 『義経伝説と日本人』, p. 159-163.
- ^ 阪井重季・猪狩又蔵 『成吉思汗』博文館(1915年)附録所収
- ^ 星野恒『史学叢説』第2集(1909年)所収
- ^ a b 『義経伝説と日本人』
- ^ 悲劇の英雄源義経と奥州平泉
- ^ 『チンギス・ハーン 大モンゴル“蒼き狼”の覇業』47頁(チンギスハーン肖像写真)
- ^ 義経不死伝説 (Kindle の位置No.2456-2458)
- ^ a b 五味・源義経
- ^ 蝦夷志 南島志 61頁
- ^ 『義経伝説と為朝伝説』, p. 101.
- ^ 宮家準『羽黒修験 -その歴史と峰入』岩田書院、2000年
- ^ 蓑島栄紀「9~11・12世紀における北方世界の交流」『専修大学社会知性開発研究センター古代東ユーラシア研究センター年報』第5巻、専修大学社会知性開発研究センター、2019年3月、129頁、CRID 1390290699802846464、doi:10.34360/00008309。
- ^ 大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国 67頁
- ^ 岡田英弘「"モンゴル民族"を創ったチンギス・ハーン」『チンギス・ハーン 大モンゴル”蒼き狼”の覇業』学研、47頁
- ^ 騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ 92-94頁
- ^ 宇 伸浩「チンギス・カン前半生研究のための『元朝秘史』と『集史』の比較考察」『人間環境学研究』第7巻、広島修道大学学術交流センター、2009年2月、57-74頁、CRID 1050845762671521024、ISSN 13474324。
- ^ a b 村上 1970, pp. 254–255.
- ^ サガン・セチェン著『蒙古源流』岡田英弘訳注、刀水書房、2004年10月、80-81頁
- ^ 村上 1970, pp. 80–81.
- ^ 村上 1970, p. 59.
- ^ 山口修「キヤンとボルヂギン:元朝秘史覺書その一」『東洋文化研究所紀要』第2冊、1951年9月
- ^ 日立 世界・ふしぎ発見! バックナンバー(第1435回)
- ^ デイリー新潮:西川恵「故・シラク仏大統領『日本との出会いがあったからこそ当選できた』と発言」2019年10月2日掲載
- ^ シネマトゥデイ「浅野忠信とモンゴルの王者との奇妙な縁」 第58回カンヌ国際映画祭(2005年5月18日)
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