シリル・ワイルドとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > シリル・ワイルドの意味・解説 

シリル・ワイルド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 09:38 UTC 版)

シリル・ワイルド(英語: Cyril Hew Dalyrimple Wild,1908年4月10日 - 1946年9月25日)は、イギリスの会社員、軍人。1929年にオックスフォード大学のブレイズノーズ・カレッジを卒業して英陸軍に入隊、1931年にライジングサン石油の社員として日本に赴任し、1940年に軍隊に復帰。日本語力を評価され英印軍第3軍英語版ルイス・ヒース英語版司令官付参謀となる。1942年2月のシンガポールの戦いでは降伏の軍使となり、降伏交渉でマラヤ軍英語版パーシバル司令官の通訳を務めた。英軍降伏後は日本軍の捕虜となり、通訳として捕虜収容所や泰緬鉄道の建設現場で日本軍との交渉にあたった。1945年8月の日本降伏後はマラヤ・シンガポールの戦犯調査に携わり、BC級戦犯を訴追。1946年9月東京裁判に証人として出廷し日本軍の非人道的行為について証言した。同月、シンガポールへの帰路、香港飛行機事故により死去。享年38歳。[1]


  1. ^ この記事の主な出典はウォード(2005) 40-91頁、ブラッドリー(2001)および遠藤(1996)。
  2. ^ ブラッドリー(2001) 15頁、遠藤(1996) 125-126頁
  3. ^ ブラッドリー(2001) 19-21頁、遠藤(1996) 125-126頁
  4. ^ ブラッドリー(2001) 21頁
  5. ^ ブラッドリー(2001) 22頁
  6. ^ ブラッドリー(2001) 22-23頁
  7. ^ ブラッドリー(2001) 23頁
  8. ^ ブラッドリー(2001) 26-28頁、遠藤(1996) 125-126頁
  9. ^ ブラッドリー(2001) 28-31頁、遠藤(1996) 125-126頁
  10. ^ ブラッドリー(2001) 28-31頁、遠藤(1996) 125-126頁
  11. ^ ブラッドリー(2001) 31,34頁、遠藤(1996) 125-126頁
  12. ^ ブラッドリー(2001) 39頁
  13. ^ ブラッドリー(2001) 31-39頁、遠藤(1996) 125-126頁
  14. ^ ブラッドリー(2001) 39頁。この頃手紙の中で、連合国と日本の関係悪化によってライジングサン社の石油取引が落ち込み、また京都で反英機運と外国人居住者への排斥意識が高まっていたことに触れている(ブラッドリー(2001) 40-41頁)
  15. ^ ブラッドリー(2001) 42頁。この他に、時期不定だが仙台市博多、福岡にも滞在歴がある(ブラッドリー(2001) 308頁)。
  16. ^ ブラッドリー(2001) 42-45頁、遠藤(1996) 127頁
  17. ^ ブラッドリー(2001) 46頁、遠藤(1996) 127頁
  18. ^ ブラッドリー(2001) 46-47頁、遠藤(1996) 127頁
  19. ^ 遠藤(1996) 127頁
  20. ^ マラヤ軍司令部の通訳は既にシンガポールから避難していた(ブラッドリー(2001) 63-64頁)。
  21. ^ このとき、交渉に向かうため白旗を担いでブキテマの丘を歩く様子が写真撮影されて新聞に掲載された(ブラッドリー(2001) 75頁)。
  22. ^ ブラッドリー(2001) 63-74頁、遠藤(1996) 124頁。
  23. ^ ブラッドリー(2001) 82頁、遠藤(1996) 124頁。
  24. ^ ブラッドリー(2001) 82-83頁
  25. ^ その端緒は日本軍への情報提供を拒んだパーシバル中将やヒース中将を数日間独房に入れ、食事や水を断つという虐待だった(ブラッドリー(2001) 83-84頁)。
  26. ^ 両収容所は市の端の湿地帯にシンガポール川を挟んで向かい合って建っており、リバーヴァレー通りの収容所には約4,500人、ハヴェロック通りの収容所には約3,500人の捕虜が収容された(ブラッドリー(2001) 84-85頁)。
  27. ^ ブラッドリー(2001) 84-85頁。この間、同収容所の捕虜は主に港で船の積荷の揚げ降ろしに従事していた(ブラッドリー(2001) 85頁)。
  28. ^ 同収容所では同年7月29日に捕虜全員が新造の駐車場の壊れた煉瓦とガラスが混ざった地面の上を走らされるという事件があった(ブラッドリー(2001) 85-86頁)。また同年9月に捕虜収容所の管轄が第25軍から陸軍省俘虜情報局に移された際には、馬来俘虜収容所の所長となった福栄真平少将の命令で収容所の捕虜全員が「脱走を企てたりしない」とする誓約書に署名させられるという事件があり、この前の週にチャンギーでは司令官のE.B.ホウムズ大佐が誓約書への署名を拒んだことにより、脱走を企てた捕虜が見せしめのために処刑されており(セララン兵営事件)、ホウムズ大佐と相談した結果、リバーヴァレー通りとハヴェロック通りの合同収容所では同じ災難を避けるために誓約書に署名した(ブラッドリー(2001) 85頁)。
  29. ^ 元英マライ軍司令部の指導者たちは、日本軍と手紙でしか接触しようとせず、要望に対して回答も得られない状況だったため、ワイルドは直接交渉するよう関係を再建した(ブラッドリー(2001) 89頁)
  30. ^ ブラッドリー(2001) 89頁
  31. ^ 連合軍の捕虜は建設現場に派遣される捕虜の部隊を派遣順にA,B,C,…,L隊と名付けていた(ブラッドリー(2001) 89頁)
  32. ^ ブラッドリー(2001) 89-90頁
  33. ^ ブラッドリー(2001) 100頁
  34. ^ ブラッドリー(2001) 100-101,121頁
  35. ^ 1943年12月末までに、F隊の7,000人のうち、3,000人以上が死亡し、1,000人は病気や移動に耐えられないことを理由にビルマ・タイに残され、3,000人がシンガポールに戻った(ブラッドリー(2001) 116頁)。
  36. ^ ブラッドリー(2001) 117-118頁
  37. ^ ブラッドリー(2001) 117-118頁
  38. ^ ブラッドリー(2001) 157頁
  39. ^ ブラッドリー(2001) 122-133,171頁
  40. ^ ブラッドリー(2001) 171頁
  41. ^ ブラッドリー(2001) 196頁
  42. ^ ブラッドリー(2001) 197頁
  43. ^ ブラッドリー(2001) 196-197頁
  44. ^ ブラッドリー(2001) 196-198頁
  45. ^ ブラッドリー(2001) 197頁
  46. ^ ブラッドリー(2001) 212頁
  47. ^ ウォード(2005) 81頁
  48. ^ ウォード(2005) 82頁
  49. ^ ウォード(2005) 82頁
  50. ^ ブラッドリー(2001) 214-259頁
  51. ^ ブラッドリー(2001) 260-261頁。乗員5人、乗客14人全員が死亡した。
  52. ^ ブラッドリー(2001) 261頁。
  53. ^ ブラッドリー(2001) 273頁
  54. ^ ブラッドリー(2001) 93頁
  55. ^ ブラッドリー(2001) 93頁
  56. ^ 福栄少将の後任(ブラッドリー(2001) 93頁)。
  57. ^ ブラッドリー(2001) 93頁
  58. ^ ブラッドリー(2001) 93-95頁
  59. ^ ブラッドリー(2001) 95-97頁。ワイルド自身も重病者の行軍を止めさせようとした際に日本兵に殴られている(ブラッドリー(2001)97-98頁)。
  60. ^ ブラッドリー(2001) 98頁。捕虜たちはその建物で5ヶ月間寝泊りした(同)。
  61. ^ ブラッドリー(2001) 99-100頁
  62. ^ ウィルキンソン中佐らは5人は逃走中に死亡、ほか3名は不詳(ブラッドリー(2001) 108-110頁)。
  63. ^ ブラッドリー(2001) 105-110頁。著者のブラッドリーもこのとき脱走し、ニーケへ連れ戻された(同)。
  64. ^ ブラッドリー(2001) 110-111頁
  65. ^ ブラッドリー(2001) 111頁
  66. ^ ブラッドリー(2001) 111-113頁
  67. ^ ブラッドリー(2001) 111-113頁
  68. ^ ブラッドリー(2001) 171-174頁。山下の裁判は同月8日に開廷しており、28日まで小休止の後、29日から再開された(ブラッドリー(2001)189頁)。
  69. ^ ブラッドリー(2001) 174-178頁。ムアルでのオーストラリア人・インド人の捕虜殺害事件2件とオーストラリア軍ケイラー曹長射殺事件に関して近衛師団・西村琢磨中将、アレクサンドラ病院事件および1942年2月19日のオーストラリア人捕虜14人の殺害事件に関して第18師団牟田口廉也中将を尋問すべきだとし、シンガポール華僑粛清事件に関して「責任者とその上官の名前」は覚えていないが、憲兵隊が裁量でやったことだとした(同)。
  70. ^ ブラッドリー(2001) 179-180頁。
  71. ^ ウォード(2005) 81頁
  72. ^ ウォード(2005) 82頁
  73. ^ ウォード(2005) 82頁
  74. ^ 林(2007) 122頁、ウォード(2005) 82頁。林(2007) 122頁では1946年9月10-11日付極東国際軍事裁判速記録からの引用としている。
  75. ^ ウォード(2005) 82-83頁。同書では、杉田の釈放はワイルドの死が英国の戦争犯罪調査にもたらした混乱の結果だとし、杉田が粛清を担当した部門の責任者でありながら訴追されず、検察側の証人となったのは全く不可解だとしている
  76. ^ ワイルドは作戦と隊員処刑事件の調査の経緯を『ブラックウッド・マガジン英語版』1946年10月号掲載の「シンゲップへの壮途」という題名の記事で紹介した(ブラッドリー(2001) 145-170頁)。


「シリル・ワイルド」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「シリル・ワイルド」の関連用語

シリル・ワイルドのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



シリル・ワイルドのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのシリル・ワイルド (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS