ザンジバルの歴史とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ザンジバルの歴史の意味・解説 

ザンジバルの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/17 16:15 UTC 版)

ザンジバルの歴史(ザンジバルのれきし)では、ザンジバル歴史について述べる。11世紀から13世紀にかけて形成されたイスラームスワヒリ文明の周縁部であったザンジバルは、16世紀ポルトガルの征服と17世紀末のオマーンによる征服を経て、19世紀前半のオマーンのサイイド・サイード王による王宮ストーン・タウンの建設以後、19世紀インド洋西部の覇権をイギリスと争ったオマーン帝国の中心として栄えた。象牙クローヴ奴隷などの貿易によって繁栄したザンジバルのイスラーム商人は、1870年代より奴隷を求めて東アフリカ内陸部のタンガニーカ湖にまで進出し、同地域のスワヒリ語化の契機を形成するなどアフリカ大陸にも強い影響力を保ったが、19世紀末のヨーロッパ列強によるアフリカ分割の文脈の中で1890年ザンジバル王国イギリス保護国となり、1896年イギリス=ザンジバル戦争の敗北によってイギリスによる直接統治が決定付けられた。20世紀に入るとアラブ系住民の主導で民族解放運動が進み、1963年12月10日ブーサイード家の国王を戴くザンジバル王国として独立を遂げたが、独立直後の翌1964年1月12日に勃発したザンジバル革命によって君主制は廃止され、ザンジバル人民共和国が成立した後、大陸部のタンガニーカと合併して同1964年4月にタンザニア連合共和国が成立した。以後、ザンジバルは大陸部のタンガニーカから強い自治権を確保したザンジバル革命政府によって統治されている。


註釈

  1. ^ シラジ・モスクとも呼ばれる。
  2. ^ イスラームの聖典『コーラン』ではムスリムを奴隷にすることは赦されていない[4]
  3. ^ 東アフリカでは「メリケニ」と呼ばれた。
  4. ^ クローヴは1818年頃にアラブ商人によってザンジバルに導入され、サイイド・サイード王が主導権を握ってザンジバル島(ウングジャ島)内やペンバ島での生産を進め[24]、一時世界生産の9割がザンジバルで生産されていた[25]
  5. ^ 当時17歳だった後のクイーン (バンド)のボーカル、フレディ・マーキュリーも亡命を選んだ内の一人であった。

出典






英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ザンジバルの歴史」の関連用語

ザンジバルの歴史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ザンジバルの歴史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのザンジバルの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS