サン・レコード
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サン・レコード (Sun Records ) は、1952年3月27日にアメリカ合衆国テネシー州メンフィスで設立されたインディペンデント系レコードレーベル[1]。
- ^ Unterberger, Richie. “The Sun Records Collection [Rhino] - Various Artists : Songs, Reviews, Credits, Awards”. AllMusic. 2013年7月13日閲覧。
- ^ Ward, Ed; Rolling Stone History of Rock Music
- ^ “Sun Records Licensing | Sun Record Company”. Sunrecords.com (1956年12月4日). 2013年7月13日閲覧。
- ^ “Julie Roberts First Artist To Sign With Sun Records in 40 years | New Country Music, Listen to Songs & Video”. Roughstock.com (2013年6月19日). 2013年7月13日閲覧。
- 1 サン・レコードとは
- 2 サン・レコードの概要
- 3 関連項目
サン・レコード
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「カール・パーキンス」の記事における「サン・レコード」の解説
エルヴィスの音楽性に自分達を重ね合わせたパーキンスは、対抗意識を燃やし[要出典]、メンフィスのサン・レコードを訪ねる。幾たびか売り込みに通い[要出典]、ようやくオーディションを受けられる事になる。1954年10月上旬、サン・レコードでサム・フィリップスにオーディションされ、パーキンスが10代の時に既に作っていた『Movie Magg 』他数曲披露し[要出典]、合格した。1955年3月19日、『Movie Magg 』でデビューし、B面の『Turn Around 』が地域的にヒットした。南部および南西部のラジオでこの曲が流され、パーキンスはアーカンソー州マリアナ、ウエスト・メンフィスでプレスリーと共演することになった。プレスリーおよび自分の観客についてパーキンスは「叫んでいる観客の前に登場しようとしたが、観客達はプレスリーの登場を待ち望んでいた。それはまるで爆発物のようだった。世界中がロック一色になったようだった」と語った。 サン・レコードから次にジョニー・キャッシュとテネシー・トゥがデビューすることになった。1955年夏、彼らはアーカンソー州リトルロック、フォレスト・シティ、コリンス、テュペロをツアーした。エル・ランショに再登場した時、パーキンス兄弟は交通事故に関わった。運転してきた友人がハンドルに引っ掛かって動けなくなった。パーキンスは燃え始めた車から彼を引きずり出した。クレイトンは車から投げ出されたが、重篤な怪我には至らなかった。 1955年10月、サン・レコードから発表された『Gone Gone Gone 』が地域的にヒットした。この曲はカントリーとリズム・アンド・ブルースの風味豊かなバウンス・ブルースであった。この曲は古典的な『Let the Jukebox Keep On Playing 』のB面で、フィドル、ウエスタン・ブギのベース、スティール・ギター、涙をそそる歌声で構成された。 パーキンスの演奏についてフィリップスは「私はカールがロックを演奏できることを知っているが、彼は当初からエルヴィスが世に出る前からあの音楽を演奏していたと語っていた。この2人のどちらがカントリー界に革命を起こしたのか目の当たりにしたかった」と語った。
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サン・レコード
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「エルヴィス・プレスリー」の記事における「サン・レコード」の解説
1953年の夏にプレスリーはメンフィスのサン・スタジオで最初の両面デモ・アセテート盤を録音するため4ドルを支払った。収録曲は当時のポピュラーなバラード “My Happiness” と “That’s When Your Heartaches Begin” であった。 サン・レコードの創業者サム・フィリップスとアシスタントのマリオン・ケイスカーはその録音を聞きエルヴィスの才能を感じ、1954年6月に行方不明の歌手の代理としてプレスリーを呼んだ。セッションは実り多いものであったかは分からなかったが、サムは地元のミュージシャン、スコッティ・ムーア、ビル・ブラックと共にプレスリーを売り出すこととした。プレスリーは最初「The Hillbilly Cat(田舎者の猫)」という名前で歌手活動を始め、その後すぐに歌いながらヒップを揺らすその歌唱スタイルから、(彼に批判的な人々から)「Elvis the Pelvis(骨盤のエルヴィス)」と呼ばれた。 1954年7月5日のリハーサル休憩中にプレスリーは“That’s All Right, Mama” をいじくり始め、サムはプレスリーが適所を得たかもしれないと考えて録音ボタンを押した。即興での演奏でドラムスが不在であったため、ベースをかき鳴らしての演奏となった。B面に“Blue Moon of Kentucky”が収録されたシングルは、WHBQラジオが放送した二日後に、メンフィスでのローカル・ヒットとなった。ラジオを聴いた人たちは黒人歌手だと勘違いしていた。 また、公演旅行はプレスリーの評判をテネシー中に広げることとなった。しかし「初舞台の時には死ぬほど緊張した。観客の声が怖かったんだ」との言葉も残っている。また、プレスリーがツアーをはじめた時、ツアー先の白人プロモーターから「黒人娘(コーラスを務めた“ザ・スウィート・インスピレーションズ”のことを言ったものだが、実際にはもっとひどい差別的な言い方をされた)は連れてこないでくれ」と連絡を受けたことが度々あった。プレスリーは「彼女たちを来させないなら僕も行かない」と言い張り、向こうが謝罪し多額のお金を積んだが、絶対に行かなかった。 このエピソードの様に、公民権法が施行される前の1950年代のアメリカでは、音楽も人種隔離的な扱いを受けている部分が多く残っていた。当時のロックンロールのヒットソングも黒人の曲をパット・ブーンらの白人がカバーし、そのカバー版が白人向けの商品として宣伝され、チャートに掲載され、またラジオなどで流れる傾向にあった。たとえ同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースに、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンに分類されることが常識だった。プレスリーは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として発掘された。 サンとの契約下でプレスリーは5枚のシングルをリリースした。 “That’s All Right / Blue Moon Of Kentucky” - Sun 209, 1954年7月19日 “Good Rockin’ Tonight / I Don’t Care if the Sun Don't Shine” - Sun 210, 1954年9月25日 “Milkcow Blues Boogie / You’re A Heartbreaker” - Sun 215, 1954年12月28日 “Baby Let’s Play House / I’m Left, You’re Right, She’s Gone” - Sun 217, 1955年4月10日 “Mystery Train / I Forgot To Remember To Forget” - Sun 223, 1955年8月6日 「ザッツ・オールライト」はビッグボーイ・クルーダップ(アーサー・クルーダップ)のカバーである。多くはリズム・アンド・ブルース、またはカントリー・アンド・ウェスタンのヒット曲のカバーであった。レーベルには「エルヴィス・プレスリー、スコッティー・アンド・ビル」とクレジットされた。10曲の中で最短の曲は1分55秒、最長のもので2分38秒である。 1955年8月18日にプレスリーの両親はプロデューサーのトム・パーカー(通称・パーカー大佐)との契約書に署名し、サン・スタジオとの関係は終了した。
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