ゲーベン追跡戦とは? わかりやすく解説

ゲーベン追跡戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/09 01:32 UTC 版)

ゲーベン追跡戦(ゲーベンついせきせん)とは、第一次世界大戦勃発直後の1914年7月末から8月上旬にかけて、地中海で生起した軍事行動である[注釈 2]地中海戦隊に配備されていたドイツ帝国海軍巡洋戦艦1隻と小型巡洋艦1隻がイギリス海軍の追跡を受け、中立国であったオスマン帝国コンスタンティノープルに入港した[3]ロシア南下政策に対してオスマン帝国は親独傾向を強めており[4]、8月2日には同盟を締結していた[5][6]。この状況下、ダーダネルス海峡を通過してトルコ領海に辿り着いたドイツ艦2隻を、オスマン帝国はドイツ帝国から受け入れ、乗組員ごとオスマン帝国海軍に編入した[7][8]。ドイツ艦2隻の追跡劇と編入によりオスマン帝国と大英帝国ロシア同盟国)の関係は悪化し、同年10月末にオスマン帝国が中央同盟国側として参戦する要因となった[9][10]


注釈

  1. ^ 今回ノ戰爭中東部地中海方面ニ於ケル作戰ノ梗概[1](中略)戰爭ノ初メニ獨逸ノ地中海艦隊デ御座リマシタ巡洋戰艦「ゲーベン」、巡洋艦「ブレスロウ」ノ二隻カ英佛艦隊ヨリ遁レテ「ダーダネルス」海峡ニ入リマシテ以来聯合與國ノ海軍ニ於キマシテハ地中海ニ於テモ北海方面ト同様敵ノ艦隊ヲ其根據地ニ封鎖スルノ策ヲ立テマシタ(以下略)
  2. ^ ◎世界大戰經過概要一覧表 昭和5年3月[2] 海上作戰 第一期(戰爭發端期)自一九一四年-八月初旬 至一九一五年-一月/海上作戰 主要なる出來事(1)8月4日-8月11日 地中海に於けるゲーベン(Goeben)、ブレスロー(Breslau)に對する作戰 
  3. ^ a b ブレスラウには、のちに第二次世界大戦ドイツ海軍 (Kriegsmarine) を率いたカール・デーニッツが新米将校として配属された[11](1912年10月1日、乗艦)[13]。役職は通信長であった[14]
  4. ^ 文献によってはドイツ地中海艦隊と表記する[16]
  5. ^ 地中海及び黒海に於ける海戰[17] 開戰當初、獨逸地中海隊に属するゲーベン及びブレスラウの二艦は、ダーダネル海峡に遁入せしが、英佛兩國の抗議嚴しかりし爲め、土耳古政府は購入の名義を以て右の二艦を其の黒海艦隊の中に加へぬ。此の一事は、明かに土耳古が獨逸の同盟關係に在るを證せり。又匈國艦隊は、英佛艦隊の爲めに、アドリヤ海に封鎖せられ、英佛側は、墺匈國の領海たるダルマシヤ海岸諸島間の水道に機械水雷を布設せり。其の後千九百十五年五月下旬に至り、伊國の對墺開戰後、墺匈國艦隊は、アドリヤ海より伊國海岸に出動せしにぞ、伊國艦隊及び英艦二隻は之と交戰して敵の小艦三隻を撃沈せり、其の後墺匈國の潜水艦は、地中海に活動するの形勢ありて、シヽリー島附近に於て、十月六日、希臘の商船を撃沈し、又同月十七日には、佛國汽船一隻を撃沈せり、次ぎに黒海に於ける露國艦隊は、千九百十四年十一月十八日、セバストポール沖に於て、土國が先きに獨逸より購入せりと稱せる巡洋艦ゲーベン及びブレスラウと交戰し、ゲーベンは損傷を受け、火災を起して遁走せり。千九百十五年一月十八日、露艦側は土耳古の商船數隻を撃沈し、更に同廿四日には、飛行機十六臺を載せたる商船數隻を撃沈し、其後又ブルガリヤ沿岸を砲撃せり。されど、此方面に於ては遂に目覺ましき海戰を見ずして終れり。
  6. ^ 開戰時に於ては英獨聯合軍獨墺同盟軍の對抗であつたが、英海軍本部の作戰指導並びにミルン大将の指揮宜しきを得なかつた爲、開戰劈頭先づ劣勢な獨軍地中海戰隊の戰略的勝利を以て終つた[18]。〔註〕當時イタリーの主要兵力は戰艦をタラント(Taranto)に三隻、ナポリ附近のガエタ(Gaeta)に四隻有してゐた。(エレナ級カブール級など)  即ちズーホン(Souchon)提督の率ゐる獨軍地中海戰隊の巡戰ゲーベン(Goeben)及び輕巡ブレスロウ(Breslau)は10日コンスタンチノープル(Constantinople)に到着した、トルコは1856年のパリ―條約を無視してそのダーダネルス(Dardanelles)通過を許したのである。
     始め獨の兩艦は墺領ポーラ(Pola)にあつたが、8月1日ブリンディツシ(Brindisi)に於て載炭し、3日にはメッシナ(Messina)海峡を北方に通過、4日佛領アルゼリア(Algeria)ボナ(Bona)及びフィリップヴィユ(Philippeville)を砲撃、5日メッシナにて再び載炭し、6日1700出港、7日にはギリシアのマレア(Malea)岬を通過し、8日デヌサ(Denusa)島で載炭、10日早朝ダーダネルスに向け出發したのである。
     この間聯合國側に於てサー・バークレー・ミルン(Sir Bekeley Milne)大将の率ゐる巡戰以下の英地中海艦隊は、イタリーの中立を犯すことを本國海軍本部より禁ぜられてゐたので、メッシナ海峡の自由出入を憚り、獨艦が同海峡を通過したにも拘らず英國軍艦は之を通過して追撃することをしなかつた爲、遂に之を逃がすに至つた。又佛陸軍(アルゼリア第19軍團)の佛本國渡洋掩護の必要からも英艦隊は行動を制限されたのである。/ 何れにするも獨兩艦がトルコに浸入したことは大戰終結まで聯合側に極めて不利な影響を及ぼしたのである。佛國艦隊はこの間専心アルゼリア軍團の輸送掩護に任じ、獨艦の追跡には全然援助を與へてゐない。/ 墺軍艦隊はその兵力よりみてイタリーの態度不確實であつたので、アドリア海に留り本國海軍の防禦に専心したから、地中海作戰には殆ど與ふる所はなかつた。/ 1915年1月まで本海洋方面の作戰はこれ以上變化はなかつた。
  7. ^ a b トルコ戦艦レシャディエは、英戦艦エリン (HMS Erin) になった[23]。トルコ戦艦オスマン・スルタン1世は、英戦艦エジンコート (HMS Agincourt) になった[24]
  8. ^ a b トルコは已に八月一日に於て、ドイツとの秘密の同盟條約を結び、ロシヤが戰爭に参加せば、相互の間に應援義務の發生すべきを定めたり。同日午後ロシヤが戰爭に加はるに至り、同盟條約の實施條件が備はるに至れり。オースストリヤも亦トルコとの同盟條約に加盟せり。該條約は嚴に秘密に付せられ、トルコの参戰の準備成るの日に至る迄、トルコは中立の維持を装ふべきことと爲せり。』聯合軍側に於て、八月一日のドイツ、トルコ間の秘密同盟條約の成立を確知し得ざりしより、トルコに對して種々の提議を爲し、之をして中立を維持せしめんと計れり。』ヨーロッパ大戰開始の頃、八月三日に於て、イギリス内閣は、國内の造船所に於てトルコ政府の爲めに製造中なりし二隻の軍艦の徴發を行ひ、トルコ政府の憤怒を招けり。ドイツ、イギリス間の開戰あるや、ドイツ軍艦ゲーベン號及びプレスラウ號の二隻がボスフォラス海峡に竄入し、トルコは是等のドイツ軍艦を購入せりと稱し、イギリス政府は、國際法違反の故を以て、之に關して抗議を提出せり。[25](以下略)
  9. ^ 獨逸土耳古を籠絡す[31](中略)故に今次大戰の開始と共に、土耳古に對する獨逸の勢力は一層加はり、地中海よりダーダネルスに遁入せる二隻の獨逸軍艦は却て土耳古の艦隊を指揮するに至り、土帝の大權はコンスタンチノープル駐箚の獨逸大使の手に移れり。されば、獨逸と土耳古の關係は、同盟に非ずして、直ちに属國關係に等しく、土耳古政府は一切獨帝の意を奉戴し、其の臣僚大官らは、人民の膏血を絞りて一身の富を計れり。事情此の如くなれば、今次大戰に際し、英佛露の聯合軍側にては、努めて寛大の處置を爲し、以て土耳古を局外中立の地位に置かんとせしも、何の效もなく、土耳古は、獨逸の形勢不利に陥れる時、突然起つて之に應援する事となれり。即ち其初め、中立を装へる土耳古が、墺匈軍ガリシヤに大敗し、獨墺軍亦波蘭に敗軍せる際、急に起つて獨逸に加勢せる事情より見て、其の獨逸に臣從せるの事實を知るべきなり。
    土耳古が獨墺側に立ちて大戰参加を宣言せるは、開戰後三ヶ月を經過せる十月二十九日なりき。思ふに、土耳古人は、逐年異教徒として白人聯合の排斥を蒙り、歐洲に於ては、僅かに南端關門の一面に足を留むるの窮境に在り。故に獨逸の強力に依賴するに非ざれば、其の存在を保つ事難く、財政亦窮乏せり。依つて今次大戰勃發と共に、獨逸より多額の金錢を受けて其身方となり、千九百十四年十月二十九日、其の軍艦を以てクリミヤ半島を砲撃し、又アゾフ海口及びコーカサス沿岸に於て、露国の商船を撃沈し、之を以て聯合側に對する宣戰の表示となせり。此に於て、コンスタンチノープル駐箚の露國大使は、十月三十一日國旗を捲いて使館を退去し、翌十一月一日、英佛兩國の大使も共に使館を撤して歸國の途に就き、茲に國交斷絶せるなりき。
  10. ^ イギリスは3C政策を掲げ、三国協商英露協商露仏同盟英仏協商)を締結していた[37]。オスマン帝国はイギリスやフランスと対ロシア同盟を結ぼうとしたが、拒否された[38]
  11. ^ イギリスはオスマン帝国領だったエジプトを事実上植民地化していた[39]
  12. ^ イギリス海軍からギャンブル提督(1909年2月~1910年3月)、ウィリアムズ提督(1910年4月~1912年4月)、リムパス提督(1912年5月~1914年9月)が派遣され、オスマン帝国艦隊総司令官に任命されていた。
  13. ^ ○希土兩國ノ軍備現況(大正三年六月十九日附報告)[44](中略) 二、土國海軍 土國海軍ノ製艦計畫ハ希國ノ計畫程ニ大規模ナラサルモ大艦ヲ多ク含ムニ於テ之ニ優レルモノアリ即チ先ツ最大級「ドレットノート」型戰闘艦三隻ヲ算シ内一隻Reshadieh號ハ客年九月進水シテ目下武装中ニ属シ第二ハ即チ伯剌西爾政府ノタメニ英國ニ於テ建造シタル前記「リオ・デジャネロ」號ニシテ客年十二月末ヲ以テ購入目下武装中ニシテ第一ト共ニ本年中ニ竣功スヘシ亦第三ハ近ク英國Vickers會社ニ注文セラルヘシ
    更ニ製艦計畫ハ輕巡洋艦二隻及水雷驅逐艦十八隻ヲ含ミ内驅逐艦十二隻ヲ佛國Normand會社ニ注文シタル外他ハ何レモ英國Armstrong-Vickers「シンジケート」ニ建造契約ヲナセリ現在海軍力ハ戰闘艦五隻 甲装巡洋艦二隻 水雷砲艦二隻 水雷驅逐艦八隻 水雷艇八隻ニシテ詳細ヲ表示スルコト次ノ如シ(以下略)
  14. ^ スウホン提督と表記する資料もある[50]
  15. ^ ブレスラウは1914年1月にトリエステの民間造船所で本格的修理を実施していた[49]
  16. ^ デーニッツも、ゲーベンからブレスラウに戻った[60]
  17. ^ この他、ゲーベンの通信を補助した客船「ゲネラル」、貨物船「ロドスト」なども通過している。
  18. ^ ○英土國交斷絶顚末ニ關スル英國政府白書摘要(大正三年十一月二十一日附報告)[81] 獨佛露ノ開戰ト共ニ英國政府ハ八月三日駐土代理大使ヲシテ土國カ「アームストロンク」會社ニ注文中ナル「オスマン」一世ヲ英國政府ニ引取ルヘキ旨ヲ土國政府ニ申入レシメタルニ土國總理大臣ハ土國カ戰爭ニ加ハラサルニ英國政府カ此ノ如キ行動ニ出タルハ友好的ナラストテ不滿ノ意ヲ表シ且ツ今次ノ戰亂ニ際シ土國ハ嚴正中立ヲ守ルヘク動員實行ノコトニ決定シタルトモ右ハ其完成ニ數箇月ノ時日ヲ要シ将來萬一ノ場合ニ備フルノ必要已ヲ得サルニ出タルモノナルコト並ニ獨逸軍事顧問ノ在任ハ何等政治上ノ意味ナキモノナルコトヲ明言セリ 英國政府ハ土國軍艦ノ引取ニ對シテハ不本意トスル所ナルモ右ハ此際ノ危機ニ際シ英國ニ在ル使用シ得ヘキ軍艦ヲ保有スルノ必要ニ迫ラレタルニ因ルモノニシテ土國カ受クル金錢上其他一切ノ損害ニ對シテハ英政府ニ於テ十分ノ考量ヲ加フヘキ旨ヲ土國政府ニ申入レタルカ土國人民ノ敵愾心ハ本件ノ爲メ頗ル熾盛トナレリ(以下略)
  19. ^ (中略)[81] 八月十一日獨國軍艦「ゲーベン」「ブレスラウ」ガ「ダーダネルス」ニ入ルヤ英國政府ハ直ニ土國政府ニ對シ獨國軍艦ヲシテ海峡ヲ通過セシメサルヘキコト、二十四時間内ニ立去ルカ然ラサレハ武装ヲ解除セシムヘキコトヲ申入ルヘキ旨ヲ駐土代理大使ニ訓令シタルニ之ト行違ニ土國政府ハ英國政府ニ對シ前記二艦ヲ買入タルコト其乗組員ハ總テ獨逸本國ニ歸還セシムヘキコト並ニ右二艦ノ購買ハ英國注文中ノ軍艦ニ代ハルモノニシテ多島海問題ニ關シ希臘ト折衝上互角ノ地歩ヲ占ムルノ必要ニ出テ敢テ露國ニ對抗スルノ考ニ出テタルニ非ル旨ヲ申入レタリ 而シテ土國海軍大臣ハ英國海軍顧問「アドミラル、リムパス」ニ右二艦ノ艤装方ヲ依頼シ且之ヲ同提督ノ麾下ニ置クヘキ旨ヲ約束シタルニ拘ラス數日ヲ出テスシテ同提督以下英國海軍将校ノ轉職ヲ命シ土國将校ヲ以シ之ニ代ヘ之レカ説明トシテ八月十六日總理大臣ハ英國代理大使ニ對シ土國ハ中立ヲ嚴守スヘク且「ゲーベン」「ブレスラウ」ハ土國将校ニ於テ之カ操縦ニ不便ヲ感スルヨリ若干獨逸将校ヲ乗組マシメ置クノ必要アリ英國提督ノ下ニ土獨兩國ノ将校ヲ置クハ不便ナルヲ以テ餘儀ナク提督以下ノ轉職ヲ見ルニ至リタル次第ナリト辯解セリ(以下略)
  20. ^ a b 是等の事件ありたるに拘はらず、聯合諸國はトルコ政府に對して種々の提議を爲せり。聯合諸國は先づ、トルコにして中立を維持し、エジプトが平穏なるときは、エジプトの政治上の地位を變更せざるべきをトルコ政府に説き、次に、若しトルコが中立を嚴守せば、協商側の諸國が總ての攻撃に對してトルコの獨立及び領土保全を指示すべきを説けり。トルコ海軍大臣が領事裁判制度の即時の撤廢を求むるや、イギリス外務大臣は、フランス及びロシヤの承諾することを條件として、現代の状態に適する制度がトルコに行はるるに至る際、イギリスが領事裁判制度に關する其権利を抛棄すべきを約せり。イギリス王も親書をトルコ帝に贈り、曩にイギリスに於てトルコの爲に製造中なりし二隻の軍艦を、止むを得ずして徴發せることにつき、遺憾の情を表し、戰爭終らば之を囘復すべきを約せり。 トルコ帝及びトルコ宰相は、外觀上、聯合諸國に對して慇懃の禮節を失はざりしも、トルコのの態度は已に決し、陸軍大臣エンヴェル「パシャ」は戰備を整ふるの件に當り、トルコ軍隊の動員が行はれたり。八月二十六日ドイツ海軍軍人が陸路トルコの首都に着せり。トルコの戰備成るや、十月二十八日、ゲーベン號の艦長は、ドイツ船及びトルコ船を率ゐて黒海に入り、セバストポル近海に水雷を浮流せしめ、オデッサ及び其他二港に砲撃を加へたり。是に於てロシヤは十月三十一日トルコに對して宣戰し、十一月三日イギリス及びフランスもトルコに對して宣戰するに至れり。ドイツ帝はトルコ帝をして、普く囘々教徒に激して、神聖戰爭を宣言せしめ、以てインド、エジプトに於てイギリスを苦め、アルゼリヤ、チェニス、モロッコに於てフランスを苦めんと欲せり。然れども囘々教徒は、ドイツ帝の豫期の如く、トルコ帝の檄に應じて起つに至らざりしなり。[25](以下略)
  21. ^ 後任の地中海戦隊司令官はパシュウィツドイツ語版英語版提督であった。
  22. ^ イギリスの思惑は軌道修正され、サイクス・ピコ協定[92]メソポタミア委任パレスチナ委任バルフォア宣言イギリス委任統治領パレスチナ)などで具体化した。この外交によりもたらされた混乱は、現在も続いている[93]
  23. ^ アルメニア・トルコ戦争フランス・トルコ戦争英語版フランス語版トルコ語版ギリシャ・トルコ戦争など。
  24. ^ 對土協約議定書の調印[98](中略)次ぎに、賠償問題に就いては、土耳古が獨墺兩國の中央銀行に寄託せる五百萬土耳古磅の金貨と、土耳古が英國に注文せる軍艦手附金五百英磅の金貨とを聯合國に提供し、之にて土國と聯合國間の一切の損害を相殺する事に一旦協定せるを、其の後、英國は、内政上の理由により、右の手附金を聯合國間に分配しがたき事となりし爲め、其の代りとして、軍艦購入資金として英國にて募集せる土耳古の國際證券九十三萬土耳古磅に相當する額の提供を申出て、依つて、更に聯合國間の意見纏まり次第、賠償分配協約が聯合國間に調印せらるべき決せり。其他經濟篇、交通篇等も、別段の難問題なく解決せられたり。(以下略)

出典

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  94. ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 72b.
  95. ^ 帝国の落日(上) 2010, pp. 314–318対トルコ政策に反発した白人自治領
  96. ^ 池内、サイクス=ピコ協定 2016, pp. 34–46セーヴル条約からローザンヌ条約へ
  97. ^ トルコ近現代史 2001, pp. 180–188ローザンヌ条約とトルコ共和国の成立
  98. ^ 通俗的世界全史、17巻 1928, pp. 355–357(原本665-669頁)
  99. ^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 112b-113.






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