カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 軍人・武士 > 騎士 > 金羊毛騎士団員 > カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒの意味・解説 

カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/01 08:56 UTC 版)

カール・ルートヴィヒ
Karl Ludwig
ハプスブルク=ロートリンゲン家
カール・ルートヴィヒ

全名
称号 オーストリア大公
出生 1833年7月30日
オーストリア帝国ウィーンシェーンブルン宮殿
死去 (1896-05-19) 1896年5月19日(62歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国ウィーンシェーンブルン宮殿
埋葬 オーストリア=ハンガリー帝国ウィーンカプツィーナー納骨堂
配偶者 マルガレーテ・フォン・ザクセン
  マリア・アンヌンツィアータ・フォン・ネアペル=ジツィリエン
  マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガル
子女 フランツ・フェルディナント
オットー・フランツ
フェルディナント・カール
マルガレーテ・ゾフィー
マリア・アンヌンツィアータ
エリーザベト・アマーリエ
父親 フランツ・カール・フォン・エスターライヒ
母親 ゾフィー・フォン・バイエルン
テンプレートを表示

カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒKarl Ludwig von Österreich, 1833年7月30日 - 1896年5月19日)は、オーストリア帝国の皇族。オーストリア大公。全名はカール・ルートヴィヒ・ヨーゼフ・マリアKarl Ludwig Joseph Maria)。フランツ・カール大公の三男。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟で、皇帝カール1世の祖父である。

生涯

カール・ルートヴィヒ(1848年)

1833年7月30日フランツ・カールとその妃であったバイエルン王マクシミリアン1世の王女ゾフィーの間に第三子としてウィーンシェーンブルン宮殿で生まれた。彼の二人の兄フランツ・ヨーゼフマクシミリアンは、後にそれぞれオーストリア皇帝メキシコ皇帝となった。母ゾフィーはウィーン大司教ヨーゼフ・オットマール・ラウシャー英語版にカール・ルートヴィヒに宗教精神を教え込むことを依頼し、ラウシャーの影響を受けたカール・ルートヴィヒは敬虔なクリスチャンとなった。

カール・ルートヴィヒは政治に関心を示さなかったが、1853年にアゲノル・ロムアルト・ゴウホフスキの下でガリツィア・ロドメリア王国総督府に赴任して政治に関わるようになり、1855年にはインスブルック総督に任命され、アンブラス城を住居とした。しかし、従兄ライナー・フェルディナントドイツ語版や内務大臣アレクサンダー・フォン・バッハによって、カール・ルートヴィヒの政治権限は制限されていた。そのため、カール・ルートヴィヒは1861年2月に総督を辞任し、その後は芸術と科学のパトロンとして、これらの世界に没頭していった。

1889年に甥ルドルフ皇太子が情死すると(マイヤーリンク事件英語版)、兄フランツ・ヨーゼフ1世の推定相続人に選ばれるが、その際に「カール・ルートヴィヒは長男フランツ・フェルディナントに推定相続人の地位を譲った」という誤報が流れた[1][2]

1896年パレスチナエジプトに旅行に出かけるが、旅行中にヨルダンで不衛生な水を飲んで腸チフスに感染し、帰国後の5月19日にシェーンブルン宮殿で死去した。遺骨はウィーンのカプツィーナー納骨堂(カイザーグルフト)に納められている。カール・ルートヴィヒの死後に長男フランツ・フェルディナントが新たな推定相続人に選ばれるが、彼は1914年にサラエボ事件で暗殺され、第一次世界大戦のきっかけになってしまう[3]

家族

カール・ルートヴィヒ、マリア、フランツ・フェルディナント、オットー・フランツ(1869年)

カール・ルートヴィヒは生涯に3度結婚している。最初の妃であるザクセン王ヨハンの王女マルガレーテとは1856年11月4日ドレスデンで結婚したが、2年後に死別。彼女との間に子供は生まれなかった。

2人目の妃は、両シチリア王フェルディナンド2世の王女マリア・アンヌンツィアータで、式は1862年10月16日に代理人を介してローマ(当時教皇領)で、10月21日に本人が出席してヴェネツィア(当時オーストリア領)で行なわれた。彼女との間には以下の三男一女をもうけた。

3人目の妃は、ポルトガル王ミゲル1世の王女マリア・テレサで、1873年7月23日クラインホイバッハ(現バイエルン州ミルテンベルク郡)で結婚した。彼女との間には以下の二女をもうけた。

系図

フランツ1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フェルディナント1世フランツ・カール
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フランツ・ヨーゼフ1世メキシコ皇帝
マクシミリアン
カール・ルートヴィヒ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ルドルフ
 
 
 
フランツ・フェルディナントオットー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貴賤結婚カール1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オットー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カール

出典

ウィキメディア・コモンズには、カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒに関するカテゴリがあります。

  1. ^ “The Crown Prince’s Successor”. New York Times. (1889年2月2日). http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9F04E0D9153AE033A25751C0A9649C94689FD7CF 
  2. ^ “Austria's Insecurity”. New York Times. (1896年6月16日). http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=F1091FFF345C107389DDAF0994DE405B8685F0D3 
  3. ^ "Franz Ferdinand, Archduke of Austria." Encyclopedia of World Biography. Vol. 29. Detroit: Gale, 2009. Gale Biography In Context. Web. 18 May 2012.




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ」の関連用語

カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのカール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS