カルロ2世 (パルマ公)とは? わかりやすく解説

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カルロ2世 (パルマ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/29 14:18 UTC 版)

カルロ2世
Carlo II
エトルリア国王
ルッカ公
パルマ公
カルロ・ルドヴィーコ・ディ・ボルボーネ(アンドレアス・シュタウブによるリトグラフ
在位 1803年5月27日 - 1807年12月10日
(エトルリア王)
1824年3月13日 - 1847年12月17日
(ルッカ公)
1847年12月17日 - 1849年5月17日
(パルマ公)

出生 1799年12月27日
スペイン王国マドリード
死去 (1883-05-17) 1883年5月17日(83歳没)
フランス共和国ニース
配偶者 マリーア・テレーザ・ディ・サヴォイア
子女 ルイーザ
カルロ3世
家名 ブルボン=パルマ家
父親 エトルリア王ルドヴィーコ1世
母親 マリーア・ルイーザ・ディ・ボルボーネ
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エトルリア王国。カルロ・ルドヴィーコとその母マリーア・ルイーザ: AR Dena - 10 Lire (1803年)

カルロ・ルドヴィーコ・ディ・ボルボーネイタリア語: Carlo Ludovico di Borbone, 1799年12月27日 - 1883年5月17日)は、カルロ2世ルイージ・ディ・パルマイタリア語: Carlo II Luigi di Parma)とも言い、エトルリア王(在位:1803年 - 1807年)、ルッカ公(在位:1824年 - 1847年)、パルマ・ピアチェンツァ公(在位:1847年 - 1849年)である。

生涯

カルロの祖父フェルナンドは1765年から1802年までパルマ公であった。フェルディナンドがナポレオン・ボナパルトパルマ公国を譲渡した時、その息子ルドヴィーコ、つまりカルロ・ルドヴィーコの父はナポレオンがトスカーナ大公国に代えて新たに建てたエトルリア王国の王となった。

カルロ・ルドヴィーコは1803年に、スペインカルロス4世の娘である母マリーア・ルイーザの摂政の下で父の王位を継いだ。しかし、1807年にナポレオンの軍隊によって捕らえられ、エトルリアから北ルシタニア(ポルトガル北部)の王位に変更を約束された。

ナポレオン失墜後の1815年、ブルボン=パルマ家はパルマ公国を回復できず、パルマはナポレオンの皇后だったマリーア・ルイージャに与えられた。母のマリーア・ルイーザはわずかにルッカ公国を確保するにとどまった。1824年に彼女が死去すると、カルロ・ルドヴィーコはルッカ公に即位した[1]。彼は公国に経済政策を導入、教育を推進した[1]。また母が彼の周りに置いた聖職者たちの頑固さへの反動として、彼は1832年にプロテスタントに改宗した[1]。自由主義の傾向も示し、1831年にはモデナ公国の政治犯を庇護し、カルボナリの一員と噂された[1]。しかし1842年にはカトリックに再改宗、イギリス出身のトマス・ウォード英語版を重用した[1]。やがてカルロ・ルドヴィーコは自由主義を完全に捨てて、1847年にローマ教皇ピウス9世の改革への反対を公にした[1]。ルッカ国民はウィーン条約で保障された1805年憲法の復活、そして国民衛兵の設立を要求し、ウォードもそれに従うよう進言したが、カルロ・ルドヴィーコはいかなる譲歩にも拒否した[1]。その数週間後にはモデナへ出国、ルッカ公国をトスカーナ大公国に売却した[1]

1847年にパルマ女公マリーア・ルイーザが死去すると、カルロ・ルドヴィーコはフィレンツェ条約英語版に基づきパルマ公を継承、カルロ2世(Carlo II)として即位した。彼がパルマを統治したのは短期間だけであり、その間のパルマは財政が破綻しており、税金が増え、政情不安に見舞われた[1]。それをみたカルロ2世はオーストリアと攻守同盟を締結した[1]。翌年に1848年革命が勃発すると、3月19日に首都で暴動がおきた[1]。カルロ2世は最初はオーストリアとの同盟を破棄して憲法制定を保証したが、突如心変わりして4月に退位した[1]。臨時政府が成立したパルマでは国民投票によりサルデーニャ王国との合邦が決定されたが、1848年8月にサルデーニャ王カルロ・アルベルト第一次イタリア独立戦争に敗れてオーストリアと停戦、オーストリアのゲオルク・フォン・トゥルン・ウント・ファルサッシナドイツ語版将軍はパルマ公国を占領した[1]。カルロ2世はヴァイシュトロップドイツ語版から勅令を発して臨時政府の決定を無効とした[1]。1849年にサルデーニャ軍が再びオーストリアを攻撃すると、オーストリア軍はパルマから撤退したが、4月にコンスタンティン・ダスプレイタリア語版将軍に再占領された[1]。カルロ2世は1849年5月に退位を確認、妃マリーア・テレーザ・ディ・サヴォイアとの間の息子カルロ3世が公位を継いだ[1]

退位後、カルロ・ルドヴィーゴはフランスに移り、ヴィッラフランカ伯爵と名乗って余生を送り、1883年にニースで没した。

家族

1820年、マリーア・テレーザ・ディ・サヴォイアと結婚した。2人は1男1女をもうけた。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Charles II. (Duke of Parma)" . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
先代
ルドヴィーコ1世
エトルリア国王
1803年 - 1807年
次代
消滅
先代
マリーア・ルイーザ
ルッカ公
1824年 - 1847年
次代
消滅
先代
マーリア・ルイーザ
パルマ公
1847年 - 1849年
次代
カルロ3世



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