ウィキペディア |
カーボベルデ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/10 19:32 UTC 版)
(カボベルデ共和国 から転送)
- カーボベルデ共和国
- República de Cabo Verde
-


(国旗) (国章) - 国の標語: なし
- 国歌: 自由の歌(Cântico da Liberdade)

-
公用語 ポルトガル語、カーボベルデ・クレオール語 首都 プライア 最大の都市 プライア 独立
- 日付ポルトガルより
1975年7月5日通貨 カーボベルデ・エスクード(CVE) 時間帯 UTC (-1)(DST: なし) ISO 3166-1 CV / CPV ccTLD .cv 国際電話番号 238
カーボベルデ共和国(カーボベルデきょうわこく)、通称カーボベルデは、大西洋の北、アフリカの西沖合いのマカロネシアに位置するバルラヴェント諸島とソタヴェント諸島からなる共和制国家。首都はプライア。
島国であり、15世紀から1975年までポルトガル領であった。独立に際してアフリカ大陸部のギニアビサウと統合する計画があったが、1980年のギニアビサウでのクーデターによって連合構想は破綻し、現在に至っている。史跡としては、かつてポルトガルの重要な植民地であったがフランシス・ドレークによって破壊された町シダーデ・ヴェーリャが残っている。ポルトガル語諸国共同体、ポルトガル語公用語アフリカ諸国の加盟国である。
目次 |
国名
正式名称は、República de Cabo Verde。通称、Cabo Verde(カーボ・ヴェルデ)。
日本語の表記は、カーボベルデ共和国。通称、カーボベルデ。カーボヴェルデ、カボベルデとも表記する。漢字表記は辺瑠出角。
国名は、アフリカ大陸西端の岬、カーボ・ベルデ(ヴェルデ岬、ポルトガル語で緑の岬の意)に由来する(ヴェルデ岬自体はセネガル領内に位置)。
歴史
詳細は「カーボベルデの歴史」を参照
初期
ポルトガルの冒険家が1456年と1460年に、最初にこの諸島に着いた時は無人だったが、卓越風、海流などにより、ギニア海岸地方よりセレール人、ウォロフ人、レブ人、ムーア人の漁師などが訪れていたと思われる。
アラブ人、フェニキア人が昔から訪れていたという民話伝承がある。ポルトガル冒険者ジャイメ・コルテサンはアラブ人は塩田に塩を取りに来ていた事を記録していて、Sal Island (Salt Island, サル島、塩の島)を指していると思われる。
現代の作家ギャヴィン・メンジーズは『1421 中国が新大陸を発見した年』(2002年)の中で15世紀の中国、明時代の冒険家 鄭和が1420年にこの島に到達していると論じている(この本で著者はクリストファー・コロンブスの前に鄭和一行がアメリカ大陸を発見していたとする議論を展開している)。
記録が残っている「発見」
分かっているカーボベルデ史の日付は、15世紀に到達した最初のポルトガル冒険者による。1444年、ディアゴ・ディアスはいくつかの島を発見した。1455年にはジェノヴァ商人のアントニオ・ノリと、ポルトガル人のディオゴ・アフォンソが訪れた。その後数十年に、エンリケ航海王子の仕事に就いていた、カダモストとアントニオ・ノリが残りの島々を発見した。1462年にポルトガル居住者は初めてサンティアゴ島に到達し、熱帯最初のヨーロッパ人の居住地となるリベイラ・グランデ(今のシダーデ・ヴェーリャ)を創設した。植民地化が始まった当初は、マデイラ諸島やアソーレス諸島のようなポルトガル人の大規模移住は行われなかったが、16世紀には、アフリカから南北アメリカ大陸へ向かう奴隷船の中継拠点となり、奴隷貿易で栄えた[2]。カーボベルデには入植したポルトガル人と連行されたアフリカ人によってクレオール文化が築かれ、両者の混血も進んだ[2]。海賊がしばしばポルトガル人居住地を攻撃した。1585年、イギリスの海賊サー・フランシス・ドレイクはリベイラ・グランデを略奪した。リベイラ・グランデは1712年のフランスの攻撃の後、1770年に首都となるプライアに比べてその重要性を失った。
1912年の「カトリック百科事典」によると、カーボベルデ諸島は1460年に、ギニアは1445年にポルトガル人によって「発見」された。これらの領土はクレメンス7世により、1553年の1月31日に司教管区に選ばれた。
奴隷貿易港から商業港へ
カーボベルデ諸島は、18世紀終盤以降経験する頻発する旱魃・飢餓と、奴隷貿易の衰退により、その繁栄は緩やかに失われた。しかし、中央大西洋航路における位置は、カーボベルデを理想的な補給港たらしめていた。19世紀には、サン・ヴィセンテ島にあるミンデロはその素晴らしい港により、重要な商業港となっていった。その一方で同じく19世紀には断続的な旱魃や、ポルトガルからもたらされた大土地所有制度の弊害などもあって、農業で暮らして行けなくなったカーボベルデ人の外国移住が始まり、特に多くがアメリカ合衆国へ向かった[2]。
政党「PAIGC」
1951年にポルトガルのアントニオ・サラザール政権は、カーボベルデを含む各植民地のナショナリズムを緩和させるために、その法的地位を植民地から海外行政地域に変更した。しかし1956年、カーボベルデ人のアミルカル・カブラルとラファエル・バルボーザは、ひそかにポルトガル領ギニア(現ギニアビサウ)で、ポルトガル領ギニアとカーボベルデの独立のためのギニア・カーボベルデ独立アフリカ党 (PAIGC)を結成した。PAIGCはカーボベルデとポルトガル領ギニアの経済、社会、政治状態の向上を求め、2両国の独立運動の基礎を成した。PAIGCは1960年にその本部をギニア共和国の首都コナクリに移し、1963年からポルトガルに対する武装抵抗を開始した(ギニアビサウ独立戦争)。武装闘争は結果的に10,000人のソビエト連邦やキューバのサポートを受けたPAIGCの兵士と、35,000人のポルトガル人及びアフリカ人の軍隊による戦争になった。
1972年までには、ポルトガル軍が駐留していたにもかかわらず、PAIGCはポルトガル領ギニアの3/4を制圧していたが、カーボベルデは地理的に隔絶しており物流がさほど無いことから、PAIGCはカーボベルデのポルトガル支配を破壊しようとはしなかった。しかし、1974年4月25日にポルトガルで起きたカーネーション革命を受け、PAIGCはカーボベルデでも活発な政治運動となった。
カーボベルデの国会成立と独立
1974年12月にPAIGCとポルトガルは、ポルトガル人とカーボベルデ人による暫定政府の同意書にサインした。1975年1月30日にカーボベルデ人は国会を選出し、1975年7月5日にポルトガルからの独立の法的承認を受けた。
PAICV
独立当初、ギニアビサウとカーボベルデは統一国家建設を目指していたが、1980年のギニアビサウでのジョアン・ヴィエイラ首相によるクーデターにより、カーボベルデ系の初代大統領ルイス・カブラル(アミルカル・カブラルの弟)が失脚すると(ポルトガル領ギニアは1973年に独立を宣言、1974年法律上の独立を認められる)、両国間の関係は緊張した。カーボベルデはギニアビサウとの統一の望みを捨て、PAIGCカーボベルデ支部は1981年にカーボベルデ独立アフリカ党 (PAICV) に改組した。PAIGC/PAICVは一党制を樹立し、独立から1990年までカーボベルデを統治した。後に諸問題は解決され、現在両国間の関係は良好である。
複数政党体制へ
政権運営後、増大する批判を受けて、PAICVは一党制を終わらせる憲法改正案を議論するための緊急議会を1990年2月招集した。反対グループは集まって、1990年4月にプライアで民主運動 (MpD) を形成した。PAICVとMpDなどの政党は共に、1990年12月の大統領選挙への異議を唱える権利を主張した。一党制は1990年9月28日に廃止され、初の多数政党の選挙は1991年1月に行われた。MpDは国会での多数派を勝ち取り、MpDの大統領候補アントニオ・マスカレニャス・モンテイロはPAICVの候補者を破り、1975年から大統領職にあったアリスティデス・ペレイラからその座を継いだ。1992年には、憲法が制定され、議会制度が定められた。
1995年12月の議会選挙は国会でのMpDの勢力を増大させ、全72議席のうちの50議席を占めた。1996年2月の大統領選挙では、PAICVをはじめとする野党は候補者を擁立せず、モンテイロ大統領が再選を決めた。1995年12月と1996年2月の選挙は自由かつ公正であると内外の監視団によって評価された。
2000年と2001年の大統領選挙では、2人の元首相ペドロ・ピレスとカルロス・ヴェイガが主な候補者だった。ピレスはPAICV統治時代に、ヴェイガはモンテイロの大統領時代に首相だった。両者とも半数近くの得票数の歴史的接戦だったが、ピレスが12票差で激戦を制した。
政治
詳細は「カーボベルデの政治」を参照
カーボベルデは国家体制として共和制、半大統領制を採る立憲国家である。現行憲法は、1992年9月25日に採択されたもの。1995年と1999年の2回、大幅な改正が行われている。
国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は5年で、3選は禁止されている。首相は国民議会により選出され、大統領が任命する。内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは、首相の推薦に基づき大統領が任命する。
「カーボベルデの大統領」および「カーボベルデの首相」も参照
立法府は一院制の国民議会である。定数は72議席。議員は比例代表制に基づき、国民の直接選挙で選出される。任期は5年。
カーボベルデは憲法で複数政党制を認めており、実質的には二大政党制が機能している。一方は、1975年の独立から1991年まで一貫して一党独裁政権を担い続けた中道左派のカーボベルデ独立アフリカ党 (PAICV) である。もう一方は、PAICV の一党支配に反発して結成され、カーボベルデ史上初の政権交代を実現させたリベラル政党の民主運動 (MpD) である。PAICV は1991年に一度、大統領職と行政府をMpDに明け渡したが、2001年より再び選挙によって再び双方を掌握している。PAICV と MpD 以外の政党の勢力は限定的だが、比較的有力なものに中道右派の民主独立カーボベルデ連合 (UCID) がある。
「カーボベルデの政党」も参照
司法府の最高機関は、最高司法裁判所である。法体系は、旧宗主国であるポルトガルの法体系が基幹となっている。
|
||||||||||||||||||||||||||
- ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年7月19日閲覧([1])
- ^ a b c d e f 市之瀬敦「クレオルの島カボ・ベルデ その形成とディアスポラ」『社会思想史の窓第118号 クレオル文化』石塚正英:編 社会評論社 1997/05
- ^ a b c d e f The Peace Corps Welcomes You to Cape Verde. Peace Corps (April 2006). This article incorporates text from this source, which is in the public domain
- ^ http://www.capeverdebreaks.com/weather.html Weather , http://www.capeverdebreaks.com Cape Verde Overview
- ^ a b c CIA World Factbook2009年11月29日閲覧。
- ^ a b c d http://www.state.gov/g/drl/rls/irf/2007/90087.htm
- ^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/cv.html
- ^ http://www.everyculture.com/multi/Bu-Dr/Cape-Verdean-Americans.html
- ^ Manuel, p. 95-97.