オゴデイ・ウルスとは? わかりやすく解説

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オゴデイ・ウルス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 02:58 UTC 版)

オゴデイ・ウルスÖgödei ulus)とは、チンギス・カンの三男で、モンゴル帝国第2代皇帝となったオゴデイを始祖とする王家によって支配されたウルスである。13世紀初頭に成立し、15世紀初頭までは残存していたとされる。


  1. ^ a b 村岡1992,20-21頁
  2. ^ 杉山1996,66-67頁
  3. ^ 例えば、西方のジョチ・ウルスは早い段階からバトゥ・ウルスとオルダ・ウルスという二つの下位ウルスを有していたことが知られている。また、東方のオッチギン・ウルスは当主の「遼王」トクトの他に「寿王」ナイマダイが独自のウルスを形成していたことが知られている(杉山2004,110-111頁)
  4. ^ このような性格は、モンゴル帝国そのものが「一人のカアンを君主に戴く一族ウルスの連合体である」という構造を有しているのをそのまま引き写したものである(杉山2004,325頁)
  5. ^ a b 杉山2004,311-312頁
  6. ^ 村岡1992,44頁
  7. ^ ただし、「領地(遊牧地)」を伴わない「領民(遊牧民)」というのも存在し得ないのは事実であり、あくまで「領民」に第一義が置かれるだけで「領地」の分配も決して軽視されるものではなかった(杉山2004,31-32頁)
  8. ^ 「平章政事忙兀公神道碑」には、投下領の分配を決定する際の方針として、シギ・クトクが「惟視太祖之旧、旧多亦多、旧少亦少(ただ太祖チンギス・カンの旧例のみを参考とし、チンギス・カンの御代に[遊牧民の数が]多かった者は[与えられる投下も]多く、[遊牧民の数が]少なかった者は[与えられる投下も]少なくする)」と述べたことが記録されている(松田2010A,119頁)
  9. ^ 松田2010A,119頁
  10. ^ 松田2010A,117頁
  11. ^ なお、オゴデイ・ウルスの諸王より遙かに大規模なウルスを有するジョチ・ウルスのウズベク・ハンやフレグ・ウルスのアブー・サイードの「ウルス」も『元史』では「部」と表現されている(村岡1992,38-40頁)
  12. ^ オゴデイ・ウルスを含むチンギス・カンの諸子弟への分封がいつ行われたか、正確な時期は分かっていない。しかし、『モンゴル秘史』で分封が卯年(1207年)以降のこととされていること、1211年の金朝遠征の際には「諸子の率いる右翼軍」と「諸弟の率いる左翼軍」という図式が完成していることなどから、分封が行われたのは1207年〜1211年頃のことと想定されている(杉山2004,33-34頁)
  13. ^ 杉山1996A,42-45頁
  14. ^ 最初期のオゴデイ・ウルスの遊牧地を明記した史料は存在しないが、ジョチ・ウルス及びチャガタイ・ウルスとの比較や後述する『長春真人西遊記』の記述などからこの辺りと推測されている(杉山2004،51-53頁)
  15. ^ 『元史』などの史料ではジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家の諸王を指して「西道諸王」、カサル家、カチウン家、オッチギン家の諸王を指して「東道諸王」と呼称することもあるが、これは「西道/東道を管理する諸王」というニュアンスも含めた呼称であると考えられている(白石2015,63-65頁)
  16. ^ 杉山2004،51頁
  17. ^ なお、金朝遠征や西夏遠征によって新たに得られた領土は「帝国の分有支配の原理」によってチンギス・カンの息子の中ではジョチ、チャガタイ、オゴデイの3名の間でほぼ均等に分割されていた。例えば、華北で与えられた領土はジョチ家の平陽路が41302戸、チャガタイ家の太原路が47330戸、オゴデイ家の西京路が45945戸でほぼ同規模であった(村岡2002,153頁)
  18. ^ 旧来の研究では『モンゴル秘史』に「[チャガタイとトルイ]は内地の国民をも同じようにして[オゴデイに]お手渡し申し上げた次第であった…」とあるのに従い、トルイは自らの千人隊を全てオゴデイに献上し、それ故にトルイ家は金朝征服などで新たに征服地を得なければならなかった、と説明されることもあった。しかし、現在では『集史』の記述などからトルイが自らの有する千人隊をオゴデイに献上したという説は誤りであると明らかにされている(松田1980,36-40頁)
  19. ^ 『世界征服者史』は「後継者オゴデイの王庭は、父の在世の間はエミル及びコボクにある彼のユルト(幕営地)であったが、彼は玉座に即くと、ヒタイとウイグル地方との間にある根幹の地に移した。そしてその居所を息子のグユクに与えた」と述べる(杉山2004,51頁)
  20. ^ 元来チンギス・カンの1万のケシクの隊長であった者の内、オゲレ・チェルビドゴルク・チェルビトルン・チェルビスイケトゥ・チェルビらはオゴデイのケシクから除かれ、トルイ家の千人隊長となっている。一方、テムデル・ノヤン、カダアン・ケプテウル、イェスン・テエらが新たにオゴデイのケシクの隊長として採用されている(村岡1996,76-77頁)
  21. ^ なお、オゴデイ在世の頃のコデン・ウルスは河西地方のみならず陝西方面にも影響力を持っていたようで、コデンが京兆府のタンマチ長官に命令を下した記録が残っている(松田1996,42-43頁)
  22. ^ ただし、後述するようにオゴデイがトルイ・ウルスから一部のノヤンを独立させ独自のウルスを形成させるという施策をとった際には反対が生じていないため、ノヤンたちは単純にチンギス・カンの定めた国体を破ることに怒ったというよりは、自身に益のない施策に怒ったのではないかとも考えられている(村岡1996,79/81頁)
  23. ^ クチュ・ウルスの位置については、潞州にクチュの避暑楼(=夏営地)が建設されたという記録が存在すること、黄河沿いの懐州から現在の山西省を縦断するルートにクチュ専用の軍事駅伝道が整備されたことなどから、潞州を中心とする現在の山西省南部一帯に置かれていたと考えられている(松田1996,44-46頁)
  24. ^ 丙申年(1236年)に旧金朝領の分割が行われた(丙申年分撥)が、この分撥は「ウルス」を単位として行われており、この時分撥対象となっているノヤンはトルイ・ウルスから独立して独自のウルスを形成していたとみられる(村岡1996,70-71頁)
  25. ^ 他にチンギス・カン死後にウルスの新設を許された皇族はベルグテイコルゲン、トルイらがいるが、トルイはチンギス・カンの本領を受け継いだのみで、ベルグテイ、コルゲンらは皇族とはいえ庶出で勢力は小さく、やはりオゴデイ・ウルスの拡大が最も影響力が大きかった(村岡1992,22-23頁)
  26. ^ 杉山1996A,90-95頁
  27. ^ 杉山1996A,95-98頁
  28. ^ 杉山1996A,98-100頁
  29. ^ 村上1972,356頁
  30. ^ ここでジョチ家のベルケがオゴデイ系諸王とともに中央アジアで領地を与えられているのは、中央アジアのオゴデイ家・チャガタイ家に対する牽制のためであったと考えられている(村岡1992,27頁)
  31. ^ ここではトタクにエミル一帯が遊牧地として与えられたかのように記されているが、エミルは元来グユク・ウルスの遊牧地であることやトタクもシレムンやホージャ・オグルらと同様にクーデター計画に参画していたことを踏まえるとこの措置は不自然である。そこで村岡倫はこの『元史』の記述はクーデター計画に参画したトタクがグユク・ウルス領のエミルに「身柄預かり」になったことを述べているのではないか、と推測している(村岡2002,156頁)
  32. ^ なお、『集史』「モンケ・カアン紀」には「[モンケは]コデンの諸子、カダアン・オグル、メリク・オグルの各人に、[オゴデイ・]カアンの諸オルド居住地から、オルドを1つずつ、彼の夫人とともに恩師した」とあり、カイドゥとトタクの名は挙がらないものの『元史』憲宗本紀と同じ事実を伝える記事であると考えられている(村岡1992,25頁)
  33. ^ 村岡1992,24-27頁
  34. ^ 『集史』「オゴデイ・カアン紀」はコデン家の條において「オゴデイ・カアンとグユク・カンの子供達がモンケ・カアンに謀叛を企んだ時にこれらのコデンの子供達は彼に最上の好意と厚誼を持った故に、その全てを罪に問い、彼等の軍隊を召し上げ、分解した時、彼等には圧迫を加えず、彼等が保持していた軍隊を彼等に定め、タングート地方に彼等の遊牧地があったので、クビライ・カアンと彼の息子のテムル・カアンはしっかりとコデンの子孫をそこに置いた。……」と記す(松田1996,25頁)
  35. ^ なお、マルコ・ポーロの『東方見聞録』も暗殺されることを恐れたカイドゥがクビライの招集を拒み続けたことが両者の不和の原因になったと伝えている(愛宕1971,263-265頁)
  36. ^ 従来、このカイドゥに協力した「コニチ」は単なる将軍と考えられていたが、村田倫の研究によりオルダ・ウルス当主にコニチであると明らかになっている(村岡1999,6-9頁)
  37. ^ カイドゥの父のカシは一時「皇太子」にされたこともありその意味では悪い出自ではなかったが、カイドゥの母は天山山脈東端に住まうメクリン部の出身で地位が低く、生母の血統の点で不利であった(杉山1996B,51頁)
  38. ^ 杉山2004,311-312頁/杉山1996B,66-67頁
  39. ^ 村岡1985,329頁
  40. ^ 『東方見聞録』は「大トゥルキー国の王はカイドゥといって、カアンの甥(実際には従兄弟の子)に当たる人物である……」という書き出しからカイドゥと大トゥルキー国について書き起こしている(愛宕1971,263頁)
  41. ^ ユブクル、ウルス・ブカらの降伏を受けて、大元ウルス朝廷は「大徳改元詔書」を発布し、元号を1297年2月に元貞から大徳に改元した(松田1983,48-50頁)。その年の内の改元は中国史上非常に珍しいものであり、この降伏を大元ウルス朝廷がいかに重要視していたかが窺える(杉山1996B,162頁)
  42. ^ この戦いについては『集史』「テムル・カアン紀」に詳細な記述があり、ココチュ軍は宴会で酩酊しきっているところに奇襲を受け、コルクズ駙馬のみが奮戦したもののその他の兵士はなすすべもなく敗れてしまったという(松田1982,2-3頁)
  43. ^ ココチュらの敗戦が1298年の冬、カイシャンがモンゴリアに派遣されたのは1299年のことであった(松田1982,1-3頁)
  44. ^ 『集史』「オゴデイ・カアン紀」は「[ヒジュラ暦]701年(西暦1301-1302年)にカイドゥはバラクの息子のドゥアと一緒に、テムル・カアンの軍隊と戦って撃ち破られた。その戦いで2人とも傷つき、カイドゥはその傷で死んだ。ドゥアはなおその傷で苦しみ、その治癒ができないでいる」と記す(松田1996,28頁)
  45. ^ 『元史』巻136列伝23哈剌哈孫伝には「詔曰『和林為北辺重鎮、今諸部降者又百餘万……』」とある。
  46. ^ 村岡1988,194-196頁
  47. ^ 村岡1992,42-44頁
  48. ^ グユク家は「無国邑(王位は与えられているが王号は存在しない)」、コデン家は「荊王」、クチュ家は「靖遠王/襄寧王」、カシ家は「汝寧王」、カダアン家は「隴王」、メリク家は「陽翟王」という王号がそれぞれ与えられていた(村岡1992,35-36頁)
  49. ^ 『元史』巻35文宗本紀4,「[至順二年夏四月]癸亥、諸王完者也不干所部蒙古民二百八十餘戸告饑、命河東宣慰司発官粟賑之」(村岡1992,38-39頁)
  50. ^ 村岡1992,40-42頁
  51. ^ 『元史』巻45順帝本紀8,「是歳、陽翟王阿魯輝帖木児擁兵数十万、屯於木児古徹兀之地、将犯京畿」
  52. ^ 村岡1992,40-41頁
  53. ^ ティムール朝で編纂された諸史料によると、北元時代にオゴデイ家の「オルク・テムルUruk Tīmūr」が即位したという。オルク・テムルは「オゴデイの息子カラク・オグルの息子ヌビヤの息子」とされているが、これでは13世紀初頭に活躍したオゴデイの曾孫になってしまい、到底年代があわないためこの系譜自体は疑問視されている。しかし、明朝の漢文史料に「非元裔也(元朝帝室の嫡孫ではない)」とあることなどから、オルク・テムルがオゴデイ家の者であるという説が受入れられている(岡田2010,p368)。加えて、和田清らの研究に従うとオルク・テムルの別名と思われる「鬼力赤」の根拠地は河西のアラシャー地方にあり、この地にはモンゴル帝国時代、オゴデイの息子のコデンが領地を与えられていた。その為、現在では「鬼力赤」はオゴデイ家の「末裔(具体的な系譜は不明)」である「オルク・テムルÖrüg Temür」と見なす見解が主流であることもこの説を補強している。また、正確な血統は不明ながら子孫を息子、祖先を祖父や父として記述する文献もある為、明らかに直接の子孫であると考えられており、コデンの弟(オゴデイの六男)のカダアン・オグルの子孫である可能性も指摘されている。
  54. ^ 明朝の下を訪れたオルク・テムルの使者は寧夏を通って帰還していること、クムル(哈密)に積極的に干渉していることなどから、オルク・テムルの根拠地は河西方面にあったと考えられている(和田1959,207-208頁)
  55. ^ アダイの居住地を明朝は「涼州境外」と記しており、やはりオルク・テムルと同様に河西方面を根拠地にしていたと考えられている(和田1959,233-234頁)
  56. ^ 村岡1992,46頁
  57. ^ 松田1996,49-50頁
  58. ^ 村岡1992,35-41頁
  59. ^ 松田1996,24-25/34-35頁
  60. ^ 松田1996,25/35-36頁
  61. ^ 杉山2004,458-473頁
  62. ^ 松田1996,26/36-37頁
  63. ^ 松田1996,26/37頁
  64. ^ 松田1996,26-31/37-39頁
  65. ^ 松田1996,31-32/39-40頁
  66. ^ 松田1996,32-33/40-41頁


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