エドワード・コーク
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サー・エドワード・コーク(Sir Edward Coke, PC, 1552年2月1日 - 1634年9月3日)は、イングランドの法律家・政治家。中世ゲルマン法に由来するコモン・ローの法思想を理論化し、近代の法思想として継承させることに成功し、「法の支配」という憲法原理を確立した。英国法の発展に大きく貢献した法律家の一人。植民地の起業家でもあった。
注釈
- ^ 1615年にジェームズ1世が国民へ徳税という強制献金を求めたが、拒絶したオリバー・シンジョンという男が国王侮辱罪で逮捕、裁判にかけられた際、審問に当たったコークは「国王は徳税を強制出来ない」と有罪に反対したが、ベーコンの意見が通りシンジョンは監禁・罰金刑に処され、コークは意見変更を強いられた。また同年、高位聖職者への非難で取り調べられたピューリタン牧師エドマンド・ピーチャムの裁判で、ジェームズ1世が判決について裁判官に個別の意見聴取を行ったが、これにも反対したコークは国王を擁護するベーコンに反論され立場は悪化した。塚田、P151 - P152、石井(2016)、P65 - P68。
- ^ 議会がイングランドの最高権力を持つ一方、国王が統治者として存在し、両者はいずれもイギリス憲法上不可欠とされ、一方が他方を併呑することは許されず両者の均衡で憲法は成り立つという思想。換言すれば憲法は国王大権と国民の自由の均衡で成り立つ。ブラクトンら憲法思想家が主張した従来からの制限王政論がテューダー朝期に入り均衡憲法論を加えて発展、一般に広まった。またこの思想と合わせて国王大権二元論も形作られ、国王大権には法の拘束を受ける部分と受けない部分があり、前者は国民の自由に関わる物、後者は直接国民の自由に関係ない物として主張された。安藤、P3 - P11。
- ^ 死後出版された“Prohibitions del Roi”は、上記のジェームズ1世とコークの議論を詳細に記したもので、法律は『人造の理性』に基づいており、決定は王ではなく法律家に任せるべきことを、しぶる王に納得させた(一時的にではあったが)ところが記されているが、この事件の存在自体を疑う向きもある。英米判例百選、P89、木村、P193、P207。
- ^ もっとも、田中英夫は、以上のような見方は法律の文言に強い拘束力を認める近代的立法観を前提にしており、コークが前提としていた中世的立法観からすれば単に法律の解釈上の指針を述べたものにすぎないとしている。英米判例百選、P90。
出典
- ^ Merriam-Webster Online、リーダーズ英和辞典、新英和大辞典、小学館ランダムハウス英和大辞典
- ^ Joseph Thomas Universal Pronouncing Dictionary of Biography and Mythology
- ^ a b c 塚田、P134。
- ^ a b c d e f g h i 松村、P153。
- ^ 塚田、P68、木村、P66、石井(2009)、P489 - P491、P506。石井(2016)、P46、P58。
- ^ 塚田、P80、石井(2009)、P537、P539 - P540。
- ^ a b c d 今井、P158。
- ^ 塚田、P133 - P134、木村、P193。
- ^ 塚田、P134 - P135、戒能、P71。
- ^ 塚田、P135 - P137。
- ^ 塚田、P149 - P150、石井(2016)、P63 - P64。
- ^ 塚田、P151 - P158、木村、P193 - P194、P232。
- ^ 浜林、P72、塚田、P191 - P194、石井(2016)、P74。
- ^ 浜林、P73、P90、今井、P176、P178、P180、P190。
- ^ 浜林、P67 - P69、安藤、P51 - P52、戒能、P58 - P59、木村、P177 - P178。
- ^ 浜林、P69、安藤、P45 - P49、P52 - P54。
- ^ 安藤、P38 - P41、P55 - P75。
- ^ a b 英米判例百選、P89。
- ^ 安藤、P75 - P85
- ^ 安藤、P43 - P44、塚田、P157 - P158、P163 - P164、木村、P180 - P181、P194 - P197。
- ^ 安藤、P53、戒能、P54。
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