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エディ・アーバイン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/01/09 13:59 UTC 版)
| エディ・アーバイン | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| フルネーム | エドムンド・アーバイン |
| 国籍 | |
| 出身地 | 同・ダウン州 |
| 生年月日 | 1965年11月10日(44歳) |
| F1での経歴 | |
| 所属チーム | '93-'95 ジョーダン '96-'99 フェラーリ '00-'02 ジャガー |
| 活動時期 | 1993 - 2002 |
| 出走回数 | 146 |
| 優勝回数 | 4 |
| 通算獲得ポイント | 191 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 26 |
| ポールポジション | 0 |
| ファステストラップ | 1 |
| F1デビュー戦 | 1993年日本GP |
| 初勝利 | 1999年オーストラリアGP |
| 最終勝利 | 1999年マレーシアGP |
| 最終戦 | 2002年日本GP |
| タイトル | 0 |
エドムンド・"エディ"・アーバイン(Edmund "Eddie" Irvine, 1965年11月10日 - )は、イギリス出身の元F1レーサー。独身。
目次 |
略歴
全日本F3000
北アイルランド生まれ。イギリスF3選手権などで活躍した後、1989年に国際F3000でパシフィックレーシングから参戦し、1990年にEJR(エディー・ジョーダン・レーシング)へ移籍して活躍した後に1991年にセルモから全日本F3000選手権へ参戦した。
当時の全日本F3000はブリヂストン・ダンロップ・横浜ゴムのタイヤ戦争が起こっており、エイヴォンのワンメイクだった国際F3000に比べはるかに高いグリップレベルのタイヤを使いこなすことが要求されていたが、多くの外国人ドライバーが悩むタイヤの使い方をマスターして、1993年に星野一義と壮絶なチャンピオン争いをした(獲得ポイントは同点、優勝回数の差で星野がチャンピオンに)。ちなみに、このことからアーバインは星野に一目置くようになり、後にF1初優勝時のレース後記者会見で「日本にはホシノっていうバカっ速いドライバーがいて、なかなか勝たせてくれなかったんだよ」「今ここに自分が居られるのはホシノさんのおかげだよ」と語り、2位入賞で同席していたハインツ=ハラルド・フレンツェン(同じく全日本F3000でのレースキャリアがある)も思わず頷いた。そのため、欧州などのジャーナリストが「ホシノとは何者だ?」と日本人ジャーナリストに聞きまわったという逸話がある。また後に星野が現役引退した際、引退を惜しむコメントを寄せている。
F1へ
その走りが評価され、1993年F1日本GPでジョーダンのシートを与えられる。F1デビュー戦である日本GPで6位入賞を果たし、実力を世界に知らしめることとなった。この日本GP決勝直後アーバインは、クレームを付けに来たアイルトン・セナに殴打されかかるという事件があった。レース中に周回遅れのアーバインがラップリーダーのセナに対し道を譲らなかったこと[1]、およびファイナルラップに勝利を確信したセナのクルージングラップ中にアーバインがパッシングしたことに対するクレームである。なお、この事件は周囲の懸命な制止により未遂であるにもかかわらず、アーバインは「セナに殴られた」と触れ回ったため、新聞には「セナ、アーバインにパンチ」という見出しなどで掲載された。かつてはセナに憧れ、自らのヘルメットもセナのデザイン(ブラジル国旗をモチーフとしたもの)を真似ていたが、この事件以前にセナから「意匠権の侵害である」とクレームを付けられたこともあり、関係が悪化していた。
翌1994年からはジョーダンのレギュラードライバーとなるが、開幕戦ブラジルGPでの多重クラッシュの原因を引き起こしたとされ3レースの出場停止を言い渡される。この処分は他の同様の例に比べると重いものであり、前年にセナとの問題でFIA法廷に被害者として出廷した際のアーバインの態度がきわめて不遜かつ無礼なものであった事に対し、FIAが灸を据えたのではないかとも言われている。若手のホープとして嘱望されていたチームメイトのルーベンス・バリチェロを予選で上回ることも多く、速いことは認められていたものの、歯に衣着せぬ物言いで他のドライバーの悪口をうっかり口にしてしまうなど悪い癖もあり、当初は危険なドライビングをするドライバーという印象が定着していた。
この年、日本時代の親友であり、1994年サンマリノGPで事故死したローランド・ラッツェンバーガーの代役としてル・マン24時間レースにサード・トヨタから参戦。チームは終盤までトップを快走するも、ミッショントラブルから3位に後退。最終ドライバーを任されたアーバインは予選並みのハイペースで疾走し、ファイナルラップで2位を奪還する熱い走りを見せた。レース後、「ローランドがいれば楽勝だった」とのコメントを残した。このレースでのチームメイトであり、やはり日本時代に親交を深めていたジェフ・クロスノフも後にレース中に絶命し、アーバインは大きなショックを受けたという。
1995年も引き続きジョーダンがら参戦し、カナダGPでは3位入賞を果たし、初の表彰台を獲得する。
フェラーリへ
1995年後半ジョーダンはアーバインの来季残留の契約がまとまったことを早々に明らかにしていたが、金銭トレードの形で翌年はフェラーリに移籍することが急遽発表された。1996年以降、ミハエル・シューマッハのチームメイトとなり、サポート役に徹する。移籍後の初戦、開幕戦のオーストラリアGPでは、予選でいきなりシューマッハより速いタイムを叩き出し、決勝においても3位表彰台を獲得した。しかし初年度はシューマッハがベネトンにいた頃同様にナンバー2ドライバーにはテストも満足にさせてもらえずリタイヤが多く成績も低迷、結局開幕戦がこの年のハイライトになってしまう。1997年以降はテストやセッティングに関しても望むものを得られ、日本GPではシューマッハとジャック・ヴィルヌーヴのチャンピオン争いにおいて、ヴィルヌーヴ[2]を牽制する汚れ役をこなし、その仕事師ぶりから「ベスト・セカンドドライバー」と称された。
1999年には開幕戦オーストラリアGPでF1初優勝を遂げたが、立場的にナンバー2扱いは変わらなかった。しかし、イギリスGPでシューマッハが大クラッシュを起こし長期戦線離脱を余儀なくされると、代役エースとしてチームのサポートを受けチャンピオン争いに名乗りを上げる。次戦オーストリアGPで優勝し、続くドイツGPではシューマッハの代役として参戦していたミカ・サロからチーム・オーダーにより優勝を譲られたことで連勝を果たし、ポイントリーダーだったミカ・ハッキネンを抜きチャンピオン争いをリードする。最終戦を残した時点で獲得ポイント首位に立っていたが、第15戦マレーシアGPより復帰したミハエル・シューマッハの露骨な援護にもかかわらず、結局最終戦日本GPにてハッキネンに再逆転を許し、ランキング2位に終わる[3]。しかしながらフェラーリは16年ぶりとなるコンストラクターズチャンピオンを、アーバインらの活躍で獲得することができた。
アーバインはF1キャリアの中で一度もポールポジションを獲得したことがなく、1999年はあわやポールポジション獲得経験の無いチャンピオンが誕生しかけたシーズンでもあった。この年限りでフェラーリを離脱するが、ミハエル・シューマッハ中心主義の体制に不満があったとのちに公言し、「いつかあいつがバナナの皮でずっこけて足でも折らないかと思っていたら、本当に骨折した」との過激な発言を残している。
ジャガー
2000年からはジャガー・レーシングと3年契約を結び参戦する。フェラーリ時代とは異なりエースドライバー待遇となり、チームにちなみヘルメットをジャガーのデザインに変えるなど意気込みを見せたが、マシンの開発が進まず成績は低迷する。思うような走りは出来なかったが、2001年のモナコGP、2002年のイタリアGPで3位入賞を果たす。このレースではフェラーリが1-2フィニッシュを達成しており、元フェラーリであるアーバインが共に表彰台に上ったことになった。 3年契約の最終年の2002年をもってチームを放出される。シーズン終了後、一時「来期はジョーダンで走る」と言われたが契約が破談し、2002年限りで引退した。
引退後
引退後、アメリカ・マイアミに住居を構える。全日本F3000参戦中は日本語が全く出来なかった為、テレビはずっとCNNなど英語が聞けるニュースや経済番組しか見なかった。そのため、現役時代より不動産などの投資に長けており、現在も投資を続けている。その資産は、2008年3月時点で2億4,500万ユーロ(約384億円)ともいわれ、これは北アイルランドスポーツ長者番付では断トツのトップである。また、映画の脇役で銀幕デビューも果たしている。
2005年には、F1への新規参入チームを巡るニュースでアーバインの名が取り上げられたが、実現はしなかった。 LUNA SEAのINORANと仲が良く、1999年のLUNA SEAのライブに顔を出している。
F1での年度別成績
| 年 | 所属チーム | # | ランキング | 獲得ポイント | 決勝最高位・回数 | 表彰台回数 | 予選最高位・回数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1993年 | ジョーダン | 15 | 22位 | 1 | 6位・1回 | 0回 | 8位・1回 |
| 1994年 | 15 | 16位 | 6 | 4位・1回 | 0回 | 4位・1回 | |
| 1995年 | 15 | 12位 | 10 | 3位・1回 | 1回 | 4位・1回 | |
| 1996年 | フェラーリ | 2 | 10位 | 11 | 3位・1回 | 1回 | 3位・1回 |
| 1997年 | 6 | 7位 | 24 | 2位・1回 | 5回 | 3位・1回 | |
| 1998年 | 4 | 4位 | 47 | 2位・3回 | 8回 | 2位・1回 | |
| 1999年 | 4 | 2位 | 74 | 1位・4回 | 9回 | 2位・3回 | |
| 2000年 | ジャガー | 7 | 13位 | 4 | 4位・1回 | 0回 | 6位・2回 |
| 2001年 | 18 | 12位 | 6 | 3位・1回 | 1回 | 6位・1回 | |
| 2002年 | 16 | 9位 | 8 | 3位・1回 | 1回 | 5位・1回 |
アイルランド国旗問題
アーバインはイギリス(連合王国)に属する北アイルランドの出身であるが、自らはアイルランド人であるというアイデンティティが強く、1995年カナダGPで初めてF1の表彰台に登ったときにアイルランド国旗を掲揚した(これは主催者側が用意したものではなくアーバイン自身が持参もしくはアイルランド人オーナーのエディ・ジョーダン側が用意したものと言われている)。
これがユニオニスト(プロテスタント派の過激組織。ロイヤリストとも)の逆鱗に触れ、殺害予告をされるほどの問題になった。この時以来、アーバインは自らがイギリス国民であると公称し、表彰式の際もイギリス国旗を掲揚するようになった。
脚注
- ^ ただし、このときアーバインは6位争いをしておりデイモン・ヒルを激しく攻め立て攻略寸前という状況であり、スポット参戦のデビュードライバーとしては情状酌量の余地がある。
- ^ ヴィルヌーヴは日本での活動時に六本木で遊んで以来の友人でもあった。後年ヴィルヌーヴは「汚い言葉を除けば彼(アーバイン)はまともなことを言っている」と評している。
- ^ 最終戦の日本GPでミハエル・シューマッハのアシストに関して、片山右京、鈴木亜久里はテレビ解説時に「シューマッハの覇気の無いレースぶりにはフェラーリで先にドライバーズタイトルを獲られたくないとの思いがあったのではないか」とコメントした。それに対し、今宮純は著書『F1ドキュメント』で「シューマッハのスタート失敗はシステムの異変。最初のピットイン迄の失速は、オーバーステアによるもの」と分析し、「シューマッハのやる気がなかった」という意見を否定している。
関連項目
外部リンク
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