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エジプト第26王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/08/22 21:58 UTC 版)
エジプト第26王朝(紀元前664年 - 紀元前525年)は、第3中間期、または末期王朝時代の古代エジプト王朝。アッシリアがエジプトを征服した後、エジプトの管理を委ねられたサイスの王家による王朝を指す。このためサイス朝と呼ばれることもある。後にアッシリアの弱体化に乗じて独立を達成し、オリエントの四大国[1]の1つとして大きな影響力を発揮した。美術面ではサイス・ルネサンスと呼ばれる古王国を手本とした伝統回帰の動きが見られた。最後は新たにオリエント世界の覇者として現れたアケメネス朝の侵攻を受けてその支配下に入った。
- ^ エジプト以外の3大国は、リュディア王国、メディア王国、新バビロニア王国。
- ^ 参考文献『考古学から見た古代オリエント史』注釈p108の記述による。
- ^ 『歴史』第2巻150節 - 152節。以下『歴史』の記述を多用するが、ヘロドトスの叙述がどの程度信頼できるかについては議論があり、単純に全てを史実であるとすることはできない
- ^ 『歴史』第2巻154節
- ^ 無論、当時のエジプト人が意識するとしないとに関わらず、活発な対外交渉の結果として異文化の影響も著しかった。
- ^ 『歴史』第2巻157節
- ^ 『歴史』第1巻105節
- ^ メディア人はペルシア人などと同じくインド・ヨーロッパ語族の言語を話した人々。メディア人に関する歴史も、ヘロドトスの記録が中心となる。
- ^ カルデア王国とも言う。新バビロニアと言う呼称は、紀元前18世紀頃の古バビロニアと区別した呼称である。
- ^ ネコ2世がユダ王ヨシヤを殺害したと言う旧約聖書の記述は、説明が不明瞭で詳細がよくわかっていない。大まかなまとめについては参考文献『聖書時代史 旧約編』p161 - 162を参照。
- ^ ちょうどこの頃、ヌビアの中心はかつてのナパタからメロエへと移っている。これをプサメティコス2世の遠征と関連付けて考える学者もいる。
- ^ 『歴史』第2巻161節
- ^ ヘロドトスの記述を信ずるならば、アプリエスはパタルベミスという部下に対し、イアフメス2世を降伏させてつれてくるように指示したが、パタルベミスがそれを果たせず一人で帰ってきたことに怒り彼の鼻と耳をそぎ落とさせた。これを見たエジプト人の重臣達はイアフメス2世の下へと走ったと言う。
- 1 エジプト第26王朝とは
- 2 エジプト第26王朝の概要
- 3 参考文献