ラングドン・ウォーナー
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ラングドン・ウォーナー(Langdon Warner、1881年8月1日 - 1955年6月9日)は、アメリカの美術史家。ランドン・ウォーナーとも表記される。シルクロードの探検家であり、アメリカ芸術科学アカデミーフェロー(1927年)[1]。
- ^ “Book of Members, 1780-2010: Chapter W”. American Academy of Arts and Sciences. 2011年4月15日閲覧。
- ^ “From the Harvard Art Museums' collections Eight Men Ferrying a Statue of the Buddha (from Mogao Cave 323, Dunhuang, Gansu province)”. 2011年1月閲覧。
- ^ “Eight Men Ferrying a Statue of the Buddha”. 2011年1月閲覧。
- ^ “Eight Men Ferrying a Statue of the Buddha”. 2011年1月閲覧。
- ^ モースの沖縄コレクションネットワーク 3.ランドン・ウォーナー―沖縄で収集(ピボディ・エセックス博物館) (PDF) アメリカ大使館「アメリカン・ビュー」2008年冬号
- ^ a b c ウォーナー博士の功績をめぐる異説について (PDF) 稲村退三、茨城大学五浦美術文化研究所報 第10号 1985年
- ^ Peter Hopkirk (2006). Foreign Devils on the Silk Road. John Murray. ISBN 978-0-7195-6448-2
- ^ “From the Harvard Art Museums’ collections Eight Men Ferrying a Statue of the Buddha (from Mogao Cave 323, Dunhuang, Gansu province)”. 2017年12月26日閲覧。
- ^ “ここから持ち去られた壁画はいまハーバード大学にある。”. 2017年12月26日閲覧。
- ^ “壁画はいまハーバード大学にある。”. 2017年12月26日閲覧。
- ^ “ウォーナー伝説と敦煌”. 2017年12月26日閲覧。
- ^ “蔵経洞の大発見と殺到する探検家たち”. 2017年12月26日閲覧。
- ^ “アメリカのウォーナー博士の探検隊が勝手に壁画を剥がした。”. 2017年12月26日閲覧。
- ^ 下村海南. 終戦秘史. 講談社学術文庫 700. p. 283. ISBN 4061587005
- ^ a b 都市の計画と京都の自己イメージの特徴 明治・大正・昭和の三断面を (PDF) 京都大学『人文』第53号、2006
- ^ 大谷大学図書館のこと (PDF) 大谷大学図書館・博物館報(第26号)2009年
- ^ a b c “【正論】日本人の安易な感謝癖と謝罪癖 比較文化史家、東京大学名誉教授・平川祐弘氏”. 産経ニュース. (2010年9月27日). オリジナルの2010年10月15日時点におけるアーカイブ。
- ^ 平川祐弘. 日本の正論. 河出書房新社. pp. 66-67. ISBN 978-4309246673
- ^ 最終講義「歴史を学ぶ楽しさ」(鈴木良) (PDF) 立命館産業社会論集(第36巻第1号)2000年6月
- ^ 毎日新聞2007年1月14日、五百旗頭 「個人が歴史を変えた」「回避された京都への原爆」
- ^ 内海のインタビュー
- 1 ラングドン・ウォーナーとは
- 2 ラングドン・ウォーナーの概要
- 3 著書
- 4 関連項目
ウォーナーリスト
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「ラングドン・ウォーナー」の記事における「ウォーナーリスト」の解説
太平洋戦争時、日本の多くの都市・地域に空爆があったが、京都は爆撃されなかった。この事実の理由として、ウォーナーが、空爆すべきでない地名のリスト(ウォーナーリスト)を作成して米政府に進言したから、という説がある。リストは、戦前にウォーナーが翻訳作業を手伝った日本古代美術展カタログを下敷きに作成された。ウォーナーと親交があった美術研究家の矢代幸雄が、1945年11月の朝日新聞にウォーナーリストが文化財を救ったという談話を発表したことから広まり、以来広く一般に知れ渡った。ウォーナーの知己である牧野伸顕の『回顧録』、近藤啓太郎の『日本画誕生』や岡倉覚三著村岡博訳の『茶の本』の解説(福原麟太郎)などにも、その旨の記述がある。また、下村宏も自著で、ハロルド・ヘンダーソン(英語版)の話によると、と前置きしてこの説を述べている。 米国の軍事資料をもとにした研究により、1945年7月のポツダム会談のさなかに至るまで、米国陸軍の航空部隊は京都を原爆投下の最有力都市のひとつに温存しており、原爆の物理的効果を測定するため、京都を通常爆撃の対象から外していたことが判明しているが、矢代らによるウォーナー賛美により、1950年には、通常爆撃目標からの除外が原爆の投下目標のためであったにも関わらず「京都は日本文化の象徴であり、爆撃の目標から特に除外された世界平和の生きた記念像である」という認識に基づく「京都国際文化観光都市建設法」が公布され、ウォーナーが亡くなった1955年には勲二等瑞宝章が授与され、高山義三京都市長もハーバード大学に感謝状を贈った。 京都を救ったのはウォーナーであるという話に基づいて、1958年6月、法隆寺西円堂の近くに供養塔、顕彰碑ウォーナー塔 (Warner Monument) が建立された。また「ウォーナーリストへの掲載=貴重である証し」といった解釈は各方面でなされ、1961年には鈴木大拙が「ウォーナー博士が爆撃から除外されるべきものとして米国大統領に進言した文化財の中でも特に貴重なものとして、大谷大学の図書館が指摘されている」と語り、同大学の新図書館建設のための募金活動につながった。鎌倉にも同趣旨に基づくプレートがある。さらにウォーナーへの感謝の胸像が作られ、米国の大学へ寄贈されたこともある。なお、平川祐弘はウォーナーが困惑し、この胸像を人目につかない地下室に置いたことを紹介している。
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