インド‐だいはんらん【インド大反乱】
インド大反乱
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インド大反乱(インドだいはんらん、英: Indian Rebellion、Sepoy Mutiny)は、1857年から1858年の間にインドで起きたイギリスの植民地支配に対する反乱、民族的抵抗運動のことである。かつては「シパーヒーの乱」、「セポイの反乱」、「セポイの乱」と呼ばれたが、反乱参加者の出身・身分が多岐にわたり、インド社会全体に広がっていた事から、最近では「インド大反乱」と呼ばれる様になっている。
注釈
出典
- ^ File:Indian revolt of 1857 states map.svg
- ^ The Gurkhas by W. Brook Northey, John Morris. ISBN 8120615778. Page 58
- ^ 1
- ^ 長崎暢子 『インド大反乱一八五七年』 中央公論社、1981年、33-37頁。
- ^ 長崎、58-60頁。
- ^ 長崎、60-63頁。
- ^ メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.174
- ^ 辛島昇編『南アジア史』山川出版社、2004年、330頁。
- ^ a b チャンドラ『近代インドの歴史』、p.141
- ^ a b c d e メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.148
- ^ メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.147
- ^ 辛島『新版 世界各国史7 南アジア史』、p.330
- ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.268
- ^ 辛島『新版 世界各国史7 南アジア史』、pp.322-323
- ^ 辛島『新版 世界各国史7 南アジア史』、p.323
- ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.152
- ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.155
- ^ 長崎、122-129頁。
- ^ 長崎、103-104頁。
- ^ 長崎、137-153頁。
- ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.153
- ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.158
- ^ a b 辛島『新版 世界各国史7 南アジア史』、p.335
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.298
- 1 インド大反乱とは
- 2 インド大反乱の概要
- 3 背景
- 4 反乱の経過
- 5 影響
- 6 参考図書
インド大反乱
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「ラクシュミー・バーイー」の記事における「インド大反乱」の解説
王国を失った後の3年間、隠棲のラクシュミー・バーイーは表立った反英活動は行っていない。 しかし、1857年5月にインド大反乱が勃発すると、ジャーンシーでもシパーヒーと民衆が蜂起し、ジャーンシー城(英語版)に駐留していたイギリス軍を降伏させ捕虜を虐殺すると、反乱軍とイギリスの仲介を図ろうとした彼女にも虐殺加担の嫌疑がかかった。更に、シパーヒー達がデリーに転進してジャーンシーは空白地帯になってしまい、民衆の推戴を受けたラクシュミー・バーイーはジャーンシーの執政となる。 私財を投じて集めた傭兵と民衆から募った義勇軍を率いた彼女は、7月にイギリスと結ぶことで利権を得ていた近隣の藩王、領主の攻撃を自ら陣頭に立って撃退し、8月にジャーンシー城を奪還して、一躍反英闘争の旗手として知られるようになった。 この件で、イギリスと敵対することになってしまったジャーンシーは、イギリス軍による攻撃を受けることになる。近代装備を持つ圧倒的な大軍に対し、女子供まで含んだ義勇兵を中心に対抗したジャーンシー軍は、ジャーンシー城で頑強な抵抗を続け、イギリスの指揮官ヒュー・ローズ(英語版)少将は、余りの苦戦ぶりに 「 理由は十分すぎるほど明らかである。彼らは王妃のために、そして自分たちの国の独立のために闘っているのだ。 」 と書き残している。 ラクシュミー・バーイーも自らライフルを手に戦ったが、半月の篭城戦の末に、1858年4月に砦は陥落してしまい、民衆の懇願を受けたラクシュミー・バーイーはわずかな手勢と共に砦を脱出した(途中でいったんイギリス軍に逮捕されたものの、護送のイギリスの士官を手づから斬殺して脱出したという逸話が残っている)。 ラクシュミー・バーイーは脱出したのち、カールピーで他の反乱軍指導者達と合流するが、落としどころを探っていた他の指導者達と徹底抗戦を叫ぶ彼女とでは意見が合わず、女性ということもあって孤立することになる。 ここもイギリス軍の攻撃を受けて陥落すると、再び脱出した彼女は計略をもって、6月1日、グワーリヤル藩王国(シンディア家)の支配していたグワーリヤル城を無血奪取し、ここを拠点とした。 これに衝撃を受けたイギリス軍は、グワーリヤル城に大軍を差し向けて攻撃した。同月16日から総攻撃を行い、6月18日に迎撃に出陣したラクシュミーは前線で指揮中に狙撃されて戦死し、20日にグワーリヤル城は陥落した。 ラクシュミー・バーイーと度々戦った敵将ローズは、彼女の遺体を荼毘に付し、貴人に対する礼を以て葬儀を行ったという。
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インド大反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 15:03 UTC 版)
1857年5月10日、スィパーヒーの蜂起に端を発するインド大反乱が発生。ブラウンも英印軍の一員として反乱の鎮圧に従事した。 1858年8月31日、インドのシーラポラー(Seerporah)における戦いに参加する。この戦いでブラウンは左腕を失ってしまうが、戦功を讃えられヴィクトリア十字章が授与された。1861年3月1日付の英国政府官報ロンドン・ガゼット紙は英国戦争省(英国国防省の前身)が発表したインド大反乱におけるヴィクトリア十字章受章者一覧の中で、ブラウンについて次のように報じている。 1858年8月31日、シーラポラーにてカーン・アリー・カーン(Khan Allie Khan)指揮下の反乱軍と戦闘があった。昼頃、英国陸軍は敵陣を突破。整然たるインド騎兵と協働し9ポンド砲を備えた敵砲兵陣地に攻勢、砲手を攻撃。これにより再装填を妨害し、攻勢中の友軍歩兵に対する砲撃を阻止した。 この最中、第2パンジャブ騎兵隊を率いたサミュエル・ジェームズ・ブラウン大尉(現在は中佐)は左膝に深刻な刀傷を受けた上、さらに肩から左腕を切り落とされた。だがしかし、同時にブラウン中佐は襲撃してきた敵兵を斬り捨てたのである。彼の働きにより9ポンド砲陣地は我が方歩兵が占領し、砲手は処刑された。 — ロンドン・ガゼット紙
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