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バトル・オブ・ブリテン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/03/10 02:06 UTC 版)
(イングランド航空戦 から転送)
| バトル・オブ・ブリテン | |
|---|---|
ルフトバッフェの主力爆撃機ハインケル He111 |
|
| 戦争:第二次世界大戦(西部戦線) | |
| 年月日:1940年7月から1941年5月 | |
| 場所:イギリス上空 | |
| 結果:イギリス軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
|
ドイツ |
イギリス帝国 |
| 指揮官 | |
| 戦力 | |
| 単座戦闘機1,107 複座戦闘機357 爆撃機1,380 急降下爆撃機428 偵察機569 沿岸哨戒機233 |
単座戦闘機754 複座戦闘機149 爆撃機560 沿岸哨戒機500 |
| 損害 | |
| 戦闘機 873 爆撃機 1,014 |
戦闘機 1,023 爆撃機 524 民間人死者 27,450 民間人負傷者 32,138 |
バトル・オブ・ブリテン(Battle of Britain)とは、第二次世界大戦におけるドイツ空軍とイギリス空軍の戦いのうち、ドイツによるイギリス本土上陸作戦の前哨戦としてイギリスの制空権の獲得のために行われた一連の航空戦を指す。ドイツ語ではイングランド航空戦(Luftschlacht um England)という。「バトル・オブ・ブリテン」の日本語訳として「ブリテンの戦い」と表記されることもある。
目次 |
概要
1940年7月10日から10月31日までイギリス上空とドーバー海峡でドイツ空軍とイギリス空軍の間で戦われた航空戦である。
緒戦でドイツ空軍はドーバー海峡付近の輸送船や沿岸の港湾を攻撃した。ロッテ戦術を使った戦法と圧倒的な軍用機の保有数において空戦はドイツ空軍が優位に立った。[要出典]
イギリスは軍民一体となって空軍を支援した。近代的なレーダー網を活用した要撃体制を構築し、イギリス連邦諸国から人的支援、中立国アメリカ合衆国からは経済支援を得ることが出来た。
ドイツ空軍は7月中旬から内陸部の飛行場を狙った空襲を繰り返してイギリス空軍に打撃を与えた。しかし、目標選定の失敗や必要な軍用機の整備不足により、ドイツ空軍も大きな被害を受けた。10月になってイギリス空軍はドイツのイギリス上陸作戦を断念させることに成功した。その意味でバトル・オブ・ブリテンの結果は第二次世界大戦の重大な転機となった。
イタリア空軍はドイツ空軍側で少数の航空機を派遣したものの効果なくイギリス軍に撃退される。ドイツ空軍の攻撃は翌1941年5月頃まで継続された。
背景
1939年9月1日に開始されたポーランド侵攻をスロヴァキアとソ連の参戦で成功させたドイツは翌年の1940年5月、西方電撃戦を開始し、僅か1ヶ月ほどでフランス・ベルギー・オランダを降伏させ、軍事的優勢と主導権を獲得した。しかし、完全勝利を目前にしてドイツ首脳部の判断ミスによってダンケルクに袋の鼠状態であった英仏連合軍将兵34万人がイギリスに撤収することを許した。
1940年7月16日にイギリス本土上陸作戦準備を決心したドイツは上陸作戦のための準備を開始し、舟艇や水陸両用戦車等の用意を始めた。さらに上陸部隊の安全を確保するためドーバー海峡における航空優勢及び制海権の獲得を目指し、ドイツ首脳部は1940年8月2日にイギリス空軍部隊の殲滅をドイツ空軍に指令した。ドイツ空軍は航空作戦を開始してバトル・オブ・ブリテンが始まった。
ドイツの戦略
ドイツ空軍はヨーロッパ大陸での作戦を念頭に置き、地続きの戦場において味方陸軍部隊への近接支援と敵の補給遮断を行うという陸空直協を前提に航空艦隊 (Luftflotte) を基本にして編制され、ドイツ空軍単独での渡洋攻撃を想定していなかった。この方針は空軍の研究開発に多大なる影響を与えた。主力戦闘機メッサーシュミット Bf 109は航続距離が短く、イギリス南東部までしか爆撃機を護衛できなかった。Bf 109よりも航続距離の長い双発戦闘機メッサーシュミット Bf 110は重武装ではあったがエンジンが2基ある分重いため、軽快な単発単座戦闘機と敵対した際の空戦能力で劣り、Bf 110もまた護衛任務に限界があった。
フランスを屈服させた後、ドイツ空軍の司令官ヘルマン・ゲーリングは2個航空艦隊を西方に移駐させた。アルベルト・ケッセルリンク率いる第2航空艦隊は、ネーデルラント(司令部:ブリュッセル)へ展開した。フーゴ・シュペルレ指揮する第3航空艦隊は、フランス西部(司令部:パリ)へ展開した。この2個航空艦隊は爆撃機1,480機、戦闘機980機の航空兵力を有した。爆撃機の内訳は、ドルニエ Do 17、ドルニエ Do 215、ハインケル He111、そしてユンカース Ju 87であった。
ヒトラーは、ポーランドと北欧で見せつけたドイツ軍の強さを外交材料にイギリスの降伏を望み、戦わずして屈服できると期待していた。そのため、イギリス本土上陸作戦を実施する必要性に懐疑的であった。また、西方電撃戦の成功により大した被害を受けることなくフランスを屈服させることができたため、ヒトラーを含めドイツ首脳部はイギリス本土上陸作戦の計画を速めなければならず、北欧侵攻でドイツ海軍の艦艇が大きな被害を受けたため慎重に検討された。イギリス海軍は第一次大戦から第二次大戦に至るまで精強な艦隊を維持しており、ドーバー海峡とイギリス海峡にドイツ海軍の艦艇を派遣することは困難であり、ライン河などの内陸河川用運搬船を上陸用舟艇に転用して、また空軍輸送機で地上部隊を輸送させなければならなかった。
イギリスの戦略
イギリス空軍の戦闘機軍団司令官ヒュー・ダウディング大将 (Hugh Dowding) はヒュー・トレンチャード子爵 (Hugh Trenchard)の協力を受けつつ戦闘機の存在意義を問う声を撥ね退け、軍用機の近代化を後押しした。イギリス空軍は世界恐慌の影響を受け、大戦勃発の直前になって軍用機の量産が開始されるという状況にあったが、ダウディング大将は航空省と計画を練ってイギリス本土防空計画を策定した。この計画では、戦闘機スーパーマリン スピットファイアと戦闘機ホーカー ハリケーンからなる46個戦闘機飛行隊が必要と見積もられ、1939年中に部隊編成を達成することができた。しかし、旧式機のグロスター グラディエーターだけでなくフェアリー バトルやブリストル ブレニムといった軽爆撃機の転用で飛行隊が補完されていた上、チャーチル首相の戦闘機派遣命令を繰り返し受けてフランス派遣軍での損失と北欧派遣軍の損失によって、計画以上の機数が必要であった。
チャーチル内閣が発足すると、マクスウェル・エイトケン・ビーバーブルック (William Maxwell Aitken, Beaverbrook) が航空機生産大臣 (Minister of Aircraft Production) として迎えられた。ビーバーブルックは倉庫で眠っていた修理用の部品を民間企業に押し出して新造機を生産させ、定数の確保に貢献した。空軍が整備のみに徹することが出来るように損傷した航空機の修理も民間企業に委託させる契約を結んだ。また、スーパーマリン スピットファイア、ホーカー ハリケーン、ブリストル ボーファイターなどの新型戦闘機、アブロ ランカスター、ハンドレページ ハリファックスといった新型爆撃機に搭載されるエンジンであるロールス・ロイス マーリンの供給が滞らないようアメリカの企業にライセンス生産を交渉し、フォード・モーター社には断られたがパッカード社が生産を承諾した。
航空省は無線電波を飛ばして航空機を発見・捜索するシステムの実用化をワトソン・ワットに依頼した。それから5年余りでレーダー監視網の整備が行われた。高空探知用のチェイン・ホーム・レーダー (CH) と低空探知用のチェイン・ホーム・ロウ・レーダー (CHL) は、発信塔から連続的な長波を発信して受信したものはブラウン管モニターに映し出された。それぞれのレーダーサイトで互いに死角を補完することができた。しかし、レーダー網は敵味方を区別できないため目視で確認する必要があり、人員を配置した監視所も設けられた。これらの防空監視システムをまとめてダウディング・システムと呼ばれる。
- ^ 飯山幸伸著 『英独航空戦』 96項
- ^ “Churchill's speech 'The Few' August 20, 1940 House of Commons”. The Churchill Society London.. 2008年6月6日閲覧。
- ^ 飯山幸伸著 『英独航空戦』 185項
- ^ 飯山幸伸著 『英独航空戦』 213項
- ^ Battle of Britain Roll of Honour, www.raf.mod.uk(英語)
- 1 バトル・オブ・ブリテンの概要
- 2 バトル・オブ・ブリテンの経過
- 3 ロンドン空襲
- 4 連合軍の勝利
- 5 参考文献
- 6 作品