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イラン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/24 11:39 UTC 版)

(イラン回教共和国 から転送)

イラン・イスラム共和国
جمهوری اسلامی ایران
イランの国旗 イランの国章
国旗 国章
国の標語: استقلال آزادی جمهوری اسلامی
ラテン文字転写:Esteqlāl, Āzādī, Jomhūrī-ye Eslāmī
ペルシア語 : "独立、自由、イスラム共和制")
国歌: イラン・イスラム共和国国歌
イランの位置
公用語 ペルシア語
首都 テヘラン
最大の都市 テヘラン
政府
最高指導者 アリー・ハーメネイー
大統領 マフムード・アフマディーネジャード
面積
総計 1,648,195km217位
水面積率 0.7%
人口
総計(2008年 74,196,000人(18位
人口密度 43人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 3,268兆0,352億[1]イラン・リヤル (IR)
GDPMER
合計(2008年 3,448億[1]ドル(29位
GDPPPP
合計(2008年 8,197億[1]ドル(18位
1人あたり 11,250[1]ドル
成立
  -
イラン・イスラム革命
1979年4月1日
通貨 イラン・リヤル (IR)(IRR
時間帯 UTC +3:30(DST: +4:30)
ISO 3166-1 IR / IRN
ccTLD .ir
国際電話番号 98

イラン・イスラム共和国(イラン・イスラムきょうわこく、ペルシア語: ایران Īrān‎)、通称イランは、西アジア中東イスラム共和制国家ペルシアペルシャともいう。北にアゼルバイジャンアルメニアトルクメニスタン、東にパキスタンアフガニスタン、西にトルコイラクと境を接する。またペルシア湾をはさんでクウェートサウジアラビアバーレーンカタールアラブ首長国連邦に面する。首都はテヘラン

1979年ルーホッラー・ホメイニー師によるイラン・イスラーム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しており、シーア派イスラームが国教である。 世界で最初に石油の開発が行われた国である。

目次

国名

イラン人自身は古くから国の名を「アーリア人の国」を意味する「イラン」と呼んできたが、西洋では古代よりファールス州の古名「パールス」にちなみ「ペルシア」として、中国では「波斯」として知られた。1935年3月21日レザー・シャーは諸外国に公式文書に本来の「イラン」という語を用いるよう要請し、正式に「イラン」に改められたものの混乱が見られ、1959年、研究者らの主張によりモハンマド・レザー・シャーがイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。その後1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和制が樹立されると、国制の名としてイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。

現在の正式名称はペルシア語でجمهوری اسلامی ایران(Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Īrān ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・イーラーン)。公式の英語表記はIslamic Republic of Iran、通称Iran。日本語の表記は「イラン・イスラム共和国」、通称イランであり、漢字表記は伊蘭・義蘭を用いる。

歴史

イランの歴史
イランの歴史
ジーロフト
エラム
マンナエ
メディア王国
ペルシア帝国
アケメネス朝
セレウコス朝
アルサケス朝
サーサーン朝
イスラームの征服
ウマイヤ朝
アッバース朝
ターヒル朝
サッファール朝
サーマーン朝
ズィヤール朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジューク朝 ゴール朝
ホラズム・シャー朝
イルハン朝
ムザッファル朝 ティムール朝
黒羊朝 白羊朝
サファヴィー朝
アフシャール朝
ザンド朝
ガージャール朝
パフラヴィー朝
イスラーム共和国
2500年の歴史を経てペルセポリスの遺跡は訪れる人々を魅了する。
9世紀から11世紀のイスラームの黄金時代と呼ばれる時代、イランはその中心地であった。

イランの歴史時代は紀元前3000年ころ原エラム時代にはじまる。アーリア人の到来以降、王朝が建設されやがてハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)が勃興、紀元前550年キュロス大王がペルシアを征服し、まもなくハカーマニシュ朝のペルシア帝国を受け継ぐアルシャク朝(パルティア)がおこり、サーサーン朝が続いた。イスラーム期に先立つハカーマニシュ朝以降のこれらの帝国はオリエントの大帝国として独自の文明を発展させ、ローマ帝国イスラム帝国に文化・政治体制などの面で影響を与えた。

イランの中世は、イスラームの征服に始まる幾多の重要な出来事が去来した。1220年のモンゴル到来によるイランの荒廃、ティムールの征服、1501年サファヴィー朝の成立とシーア派の国教への採用などである。その後ガージャール朝の時代までに、イランはイギリスロシアなど列強の勢力争奪の草刈り場の様相を呈することになった。19世紀、近代化の波がイランに押し寄せるとイラン人は改革を熱望し、1905年から1911年イラン立憲革命を導いた。

1950年代はじめ首相モサッデグは国民の圧倒的支持を集めて、石油の国有化を断行する(石油国有化運動)が、1953年英の情報部による周到な計画(アイアス作戦)によって失脚させられ、国有化は失敗に終わった。この事件によってパフラヴィー朝シャーモハンマド・レザー・パフラヴィーは権力を集め、特に1970年代後期に、シャーの支配は独裁の色合いを強めた。シャーは米英の強い支持を受けてイラン産業の近代化を推し進める(白色革命)一方で、市民の自由を抑圧した。シャーの独裁的統治は1979年イラン・イスラーム革命につながり、新たにアーヤトッラー・ホメイニーのもとイスラーム共和国が樹立された。

新たなイスラーム政治制度は、先例のないウラマー(法学者)による直接統治のシステムを導入するとともに、伝統的イスラームに基づく社会改革がおこなわれた。これはペレティエ『クルド民族』に拠れば同性愛者を含む性的少数者や非イスラーム教徒への迫害を含むものだった。また打倒したシャーへの支持に対する反感により対外的には反欧米的姿勢を持ち、特に対アメリカ関係では、1979年アメリカ大使館人質事件、革命の輸出政策、ヒズボッラー(ヒズボラ)、ハマースなどのイスラエルの打倒を目ざす武装組織への支援によって、非常に緊張したものとなった。1980年には隣国イラクの侵攻によってイラン・イラク戦争が勃発、この破壊的な戦争は1988年まで続いた。国政上の改革派と保守派の争いは、選挙を通じて今日まで続くものである。保守派候補マフムード・アフマディーネジャードが勝利した2005年の大統領選挙でもこの点が欧米メディアに注目された。

史跡

なお、これらをイラン五大遺跡という。




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  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/8493.html
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  4. ^ 山川出版社『詳説世界史』 第18章 現代の世界>世界経済の変容と南北問題>イスラム世界と石油危機
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  9. ^ 中日新聞 2008年2月17日版 イランのモシャイ副大統領は、「イランの最高指導者のハーメネイー師が、アメリカとの関係回復がイランのためになるなら、私はそれを承認する最初の人物となると表明した」とハーメネイー師の表明を引用して表明した。
  10. ^ 東京新聞 2008年2月15日版 イランのモシャイ副大統領は、「アメリカが中東への見方を変更し、イランの役割を理解し、イランに対する敵視政策を転換するなら、アメリカとの関係回復は可能である。」と表明した。
  11. ^ 毎日新聞 2008年2月25日版 イランのサマレハシェミ大統領上級顧問は、「相手国の立場を互いに尊重できるなら、イランはイスラエル以外の全ての国と友好的で平等の関係を形成する。アメリカがイランの立場を尊重するなら関係を修復する用意がある。イラン国民がアメリカとの関係修復を歓迎しない理由はない。」と表明した。
  12. ^ 読売新聞 2008年2月29日版 イランのアラグチ駐日大使は、「日本とイランは良好な関係を保ってきた、日本政府はアメリカ政府よりずっと、中東地域の現実や、地域でのイランの役割を熟知しているので、日本はアメリカにイランに対する敵視政策の変更を促す適任者である。アメリカが賢明な政策を取るよう、日本政府が助言することを期待する。」と表明した。
  13. ^ 毎日新聞 2008年2月29日版 アフマディーネジャード大統領は、「イラクのタラバニ大統領、マリキ首相と会談し、イラクの治安改善への協力する意向である。」と表明した。
  14. ^ 東京新聞 2008年2月29日版 イランのアフマディーネジャード大統領は、「3月2日に、1979年のイラン・イスラム革命後初めてイラクを訪問し、タラバニ大統領、マリキ首相と会談し、イラクの治安改善のための協力について協議する。」と表明した。
  15. ^ Milliyet紙2009年10月28日付 トルコのエルドアン首相もイランの核保有の権利があると強調し、「地球上で非核の呼びかけを行う者はまず最初に自分の国から始めるべきだ」と述べた。
  16. ^ 反米で「共闘 」ベネズエラとイラン大統領” (日本語). 共同通信社 (2006年7月1日). 2010年9月15日閲覧。
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  18. ^ アメリカでのコーラン焼却にイスラム教徒が抗議” (日本語). IRIB (2010年9月13日). 2010年9月17日閲覧。
  19. ^ シオニスト入植者、コーランを冒涜” (日本語). IRIB (2010年9月15日). 2010年9月15日閲覧。
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  21. ^ イランのバザール、米のコーラン焼却に抗議し休業” (日本語). IRIB (2010年9月15日). 2010年9月15日閲覧。
  22. ^ IMF
  23. ^ 国民経済計算
  24. ^ 具体的には、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒、アッシリア・カルデア教会、北部アルメニア使徒教会、南部アルメニア使徒教会にそれぞれ1つずつ。ただし通常の選挙に非ムスリムが出馬することは禁止されている。discrimination against religious minorities in IRAN
  25. ^ a b "Iran"2010年2月1日閲覧。








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