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イェジイ・ジュワフスキ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/11 10:24 UTC 版)

イェジイ・ジュワフスキの肖像。スタニスワフ・ヴィスピャンスキ(Stanisław Wyspiański)画

イェジイ・ジュワフスキポーランド語:Jerzy Żuławski [ˈjɛʐɨ ʐuˈwafski/イェージ・ジュワーフスキ]1874年7月14日 - 1915年8月9日)はポーランドの文学者、哲学者、翻訳家、登山家、民族主義者である。その最も良く知られた業績は、1901年から1911年にかけて書かれたSF叙事詩"トルィロギヤ・クシェンジツォヴァ(Trylogia Księżycowa)"(月三部作)[1]である。

目次

文学上の遺産

21歳での詩集の刊行(1895年)に始まり、第一次大戦の緊急報告書(1915年)で終わる20年間の著述業において、イェジイ・ジュワフスキは印象的な著作群を生み出した。その内訳は七冊の詩集、三冊にまとめられた文芸批評、数多くの文化的・哲学的エッセイ、十の戯曲と五編の小説である。彼は20世紀序盤において、重要で影響力のある、知性的な人物だと見なされていた。しかし20世紀後半では、創作の「月三部作」だけが、出版され続けることで彼の文学上の不滅性を保証していたに過ぎなかった。「世界で最も売れているSF作家」として名高いスタニスワフ・レム (1921年 - 2006年) は、「月三部作」の第一巻"ナ・スレブルヌィム・グロビェ(Na Srebrnym Globie)"『銀球で』[2]1956年版と1975年版に紹介文を寄稿して、ジュワフスキの言葉には自分を「空想の作家」にするきっかけを与えるものがあったこと、「月三部作」を読むのに使った時間は彼の少年時代で最も魅惑的かつ人生を変える体験だったことを書き記している。

前半生、哲学における教育と研究

イェジイ・ジュワフスキは、ガリツィア地方の大都市ジェシュフに近いリポヴィェツ村で、強固に民族主義的なポーランド人の家に生まれた。1772年の第一回ポーランド分割によって、ガリツィアは(その首都ルヴフで)ポーランドから分離され、146年もの間、ハプスブルク家オーストリア帝国の一部とされた。イェジイ誕生の11年前、郷士であった彼の父カジミェシュはツァーリの法律に対する1863年の1月蜂起に加わった。カジミェシュは若いイェジイの人生に多大な影響を与え、イェジイは父と多くの見解を共有するようになった。

リマノヴァ 、ボフニャクラクフの良い学校で教育を受け、1892年から99年までジュワフスキはスイスへ行って初めチューリッヒ大学で学び、そしてベルン大学で実証主義者のリヒャルト・アヴェナリウス (Richard Avenarius, 1843 - 1896) の指導の下、博士号を取るべく哲学の研究を続けた。アヴェナリウスは、ジュワフスキがスピノザに関する博士論文"Das Problem der Kausalität bei Spinoza"(スピノザにおける因果性の問題)を1889年に発表する前に他界した。ジュワフスキは後にそのドイツ語原稿を加筆修正して、1902年にポーランド語の一般向けの本"ベデディクト・スピノザ、チュウォヴィェク・イ・ヂェウォ(Bededykt Spinoza, Człowiek i Dzieło)"(ベネディクト・スピノザ、人と業績)とした。彼はまたニーチェショーペンハウエルエドゥアルト・フォン・ハルトマンについて書き、そして彼らの著書のいくつかに関しては史上初のポーランド語訳を世に送り出した。ヘブライ語旧約聖書タルムード、数多い東洋の哲学者たちの著作物についても同様である。

最初の著作物

イェジイ・ジュワフスキの名前が冠された初めの刊行物は、これもやはりベルンで書かれた。クラクフの出版社に送った"ナ・ストルナフ・ドゥシ(Na strunach duszy)"(魂の弦の上で)という短い選集が、1895年に出版された。ドイツ語圏のベルンにおいてたった一冊のポーランド語の詩集はさして注目されなかったが、この若い作家は、それを取り上げたいくつかのポーランドの報道機関からそこそこの賞賛を受けた。十年後、ジュワフスキの一時的な名声の高さにより、この本は実験作であり彼の実力が真に発揮されたものではないと見なされるようになった。彼は文学雑誌"クルィティカ(Krytyka)"(批評)の編集を補佐するため1899年の春にポーランドへ帰り、クラクフで結婚したのち、まずヤスウォ (Jasło) で学校教師になった。彼のエッセイの多くは別の文学雑誌"ジチェ(Życie)"(生命)で発表された。


  1. ^ Wikipedia英語版では"Lunar Trilogy"。日本語には未訳だが、深見弾「東欧SFの系譜」(下記)にて、《月三部作》の名前で紹介されている。本項ではそれに準じた。ただし長谷見一雄「ジュワフスキとポーランドSF」(下記)では《月世界三部作》として紹介。
  2. ^ 同上。この題名で紹介されている。Wikipedia英語版では"On the Silver Globe"の英題を冠している。「ジュワフスキとポーランドSF」では『銀色の銀色の月球にて』。
  3. ^ 同上。この題名で紹介されている。Wikipedia英語版では"The Conqueror"の英題を冠している。
  4. ^ 同上。この題名で紹介されている。Wikipedia英語版では"The Old Earth"の英題を冠している。「ジュワフスキとポーランドSF」では『古き地球』。
  5. ^ ユゼフ・ピウスツキの私設軍隊。
  1. ^ a b 長谷見一雄「ジュワフスキとポーランドSF」


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