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ア・ラマ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/31 14:31 UTC 版)
ローマ橋 |
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| 州 | |
|---|---|
| 県 | |
| コマルカ | ポンテベドラ |
| 司法管轄区 | ポンテベドラ |
| 面積 | 111.8km² [1] |
| 教区数 | 10 |
| 標高 | 478m |
| 人口 | 2,976人(2011年) |
| 人口密度 | 26.6人/km² [1] |
| 住民の呼称 | lamense |
| ガリシア語話者率 | 92.88% |
| 北緯42度23分28秒 西経8度26分38秒 / 北緯42.39111度 西経8.44389度 | |
ア・ラマ (A Lama) は、スペイン、ガリシア州、ポンテベドラ県の自治体、コマルカ・デ・ポンテベドラに属する。ガリシア統計局によると、2011年の人口は2,976人(2010年:2,966人、2009年:3,001人、2004年:2,905人、2003年:2,957人)[1]。住民呼称は、男女同形のlamense。カスティーリャ語表記は、定冠詞をカスティーリャ語に変えたLa Lama。
ガリシア語話者の自治体人口に占める割合は92.88%(2001年)。
目次 |
地理
ア・ラマはポンテベドラ県の中部に位置し、コマルカ・デ・ポンテベドラに属する。隣接する自治体は、北がコトバーデ、フォルカレイ、東がベアリス、アビオン(ともにオウレンセ県)、南がフォルネーロス・デ・モンテス、西がポンテ・カルデーラスである。自治体中心地区はア・ラマ教区のア・ラマ地区[2]。
ア・ラマはポンテベドラ司法管轄区に属す[3]。
人口
| ア・ラマの人口推移(1900年 - 2010年) | |||||||||||
| 1900 | 1910 | 1920 | 1930 | 1940 | 1950 | 1960 | 1970 | 1981 | 1991 | 2000 | 2010 |
| 5,305 | 5,241 | 5,310 | 4,941 | 5,155 | 4,863 | 5,398 | 4,208 | 3,040 | 2,984 | 3,047 | 2,966 |
| 出典:INE(スペイン国立統計局)1900年 - 1991年[4]、1996年 - [5] | |||||||||||
歴史
自治体内にはポルテーラ・ダ・クルス、オ・セイショ、オ・スイード、アンタスなどに古墳など巨石文化時代の遺跡が残されている。
また、青銅器時代のものとみられる剣や、カストロ・デ・ガシャーテではいくつもの青銅製の斧も発見されている。チャン・ド・カンポ、オウテイロ・セイシーニョ、バル・ド・ガト、ラシャ・ダス・プサスなどでは、ペトログリフも発見されている。カストロについては3ヵ所発見されている。
中世には、北部地域は15世紀以降アルメンテイラ修道院(Mosteiro de Santa María de Armenteira)の支配をうけ、残りの地域はソウトマイヨールの領主の所領であった。
17世紀から18世紀にかけて、アメリカ植民地からもたらされた、トウモロコシ、そしてジャガイモによって、人口が増加、牧畜業も増大した。この農業の変革は夏期の小麦の収穫期においてカスティーリャ地方への季節労働移民を引き起こすこととなった。そして、多くの道が整備され、教会、館、橋がたてられた。この時代にリバダビア、ポンテベドラ、リニャーレスと続く旧街道に、パラーダ川にかかる橋が作られた。
19世紀から20世紀の新大陸アメリカへの移民は、上流階級からその所有していた土地を買い、教育のための施設を整備することを可能にした。
政治
自治体首長はガリシア国民党 (PPdeG) のホルヘ・カンダ・マルティネス (Jorge Canda Martínez) 、自治体評議員はガリシア国民党:8、ガリシア社会党 (PSdeG-PSOE) :2、ガリシア民族主義ブロック (BNG) :1となっている(2007年自治体選挙結果、得票順)。
教区
ア・ラマは10の教区に分けられる。太字は自治体中心地区のある教区[2]。
- アンタス(サンティアーゴ)
- ア・バルシア・ド・セイショ(サンタ・アナ)
- コベーロ(サン・セバスティアン)
- エスクアドラ(サン・ロウレンソ)
- ガシャーテ(サン・ペドロ)
- ア・ラマ(サン・サルバドール)
- セイシード(サン・バルトロメウ)
- ベルドゥシード(サン・マルティーニョ)
- シェンデ(サン・パウロ)
- シェスタ(サン・バルトロメウ)
参考文献
- ^ a b c “IGE(ガリシア統計局)” (ガリシア語). ガリシア自治州政府. 2012年5月29日閲覧。
- ^ a b Dicionario Xeográfico Ilustrado de Galicia vol.13、p.231-232、Xeogal Publicacións、2009、ISBN 978-84-613-5823-6
- ^ “Pontevedra, partido judicial nº4 de Pontevedra” (スペイン語). Consejo General de los Procuradores de España. 2012年5月29日閲覧。
- ^ Poblaciones de hecho desde 1900 hasta 1991. Cifras oficiales de los Censos respectivos.
- ^ Series de población desde 1996. Cifras oficiales de la Revisión anual del Padrón municipal a 1 de enero de cada año.
外部リンク
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アラマ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/05/25 19:07 UTC 版)
アラマ(Arama, もしくはアラメ Arame, アラム Aramuとも)は、ウラルトゥ最古の王。南方のアッシリア帝国の脅威に対抗してナイリの諸部族を初めて統一し、ウラルトゥ王国の礎を築いた。
来歴
アラマについてはアッシリア史料に名が見えるのみで、詳しいことは全く判明していないが、ナイリ諸部族を率いてアッシリアへの抵抗を続けた。ナイリ諸部族はアラムとルティプリの下、二大勢力に収斂され、中央集権化された国家組織を整えていくことになり、紀元前844年頃にアラムからルティプリの息子サルドゥリ1世に王権が移ったと思われる。アラムの当時ウラルトゥの都はまだトゥシュパにはなく、トゥシュパに遷都されるのはサルドゥリ1世の時代である。
アラマの時代、ナイリの諸部族は南方のアッシリアの攻撃にさらされていた。アラマはアッシリア王シャルマネセル3世(在位:紀元前858年‐824年)と同時代の人物で、その治世を記した年代記に登場する。アラムはアッシリアに抵抗したもののウラルトゥの勢力はまだ弱く、常にアッシリア軍による本土侵入と馬や牛といった家畜の略奪を許した。
シャルマネセル3世は即位直後の紀元前858年にナイリに遠征、アッシリアとの国境にあるスフニイの砦を攻略した。アッシリア軍は砦を破壊して「ナイリの海」(ヴァン湖)に到達した。しかしアラムは逃げ延びたためウラルトゥの勢力を押さえ込むことは出来なかった。
そのため早くも2年後(紀元前856年)に再度シャルマネセルはナイリに対する遠征を行った。アッシリア軍はアラマのいるアルザシュクン(ウラルトゥ語:Arsis-sa, アルメニア語:Արզաշկուն)の町に向かい、アラマが脱出したこの町を攻略して3400人を倒し、その戦車や家畜を奪ったという。アッシリア軍は今回もヴァン湖にまで到達したが、アッシリアの年代記にある輝かしい勝利という記述とは裏腹に、ウラルトゥ軍は正面から立ち向かうことを避けて山にこもってゲリラ戦を展開したため、アッシリア軍の遠征は今回もウラルトゥ撃滅という目的を果たせなかった。
アッシリアに対してナイリの諸部族は連合して立ち向かい、その統制の必要上、烏合の衆だったナイリ族は統一された軍隊の体裁を整えていったと考えられる。精強なアッシリア軍に立ち向かうため皮の武器は青銅、やがて鉄に置き換わってゆき、その成果は次代のサルドゥリ1世の代に発揮されることになる。
アルメニア史とのかかわり
アラマ(アラム)はアルメニア人の伝説上の始祖アラムの原型となったと思われる。ただしウラルトゥ王のアラムはアルメニア人でもなく、旧約聖書のアラム人とも関わりはない。アルメニアの歴史家ホレナツィの『歴史』では、アラムはアルメニア人の始祖ハイクの5代のちとされており、また18世紀のアルメニアの歴史家ミカイェル・チャムチアンはアラムを紀元前19世紀頃の人物と考えていた。
文献
- Пиотровский Б. Б. Ванское царство (Урарту), Издательство Восточной литературы, Москва, 1959
- (邦訳)『埋もれた古代王国の謎 幻の国ウラルトゥを探る』(ボリス・ボリソヴィッチ・ピオトロフスキー著、加藤九祚訳、岩波書店、ISBN 9784000001601 (4000001604))
- Меликишвили Г. А. Урартские клинообразные надписи, Издательство АН СССР, Москва, 1960
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