アンナ・アンダーソンとは? わかりやすく解説

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アンナ・アンダーソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 14:38 UTC 版)

アンナ・アンダーソン(Anna Anderson、1896年12月16日 - 1984年2月12日)は、ロシア皇女アナスタシアを自称したアメリカ人女性。王族偽装者の一人である。


注釈

  1. ^ 仮にアンナがアナスタシアであったとしてもその夫に帝位の継承権があるわけではない。
  2. ^ 正確には、本物のアナスタシアが主人公の一人であり、ラストでもう一人の主人公から、「アンナ・アンダーソン」という新たな身分を与えられる、という展開。

出典

  1. ^ Tucker, William O., Jr. (5 July 2007), “Jack & Anna: Remembering the czar of Charlottesville eccentrics”, The Hook (Charlottesville, Virginia: Better Publications LLC), http://www.readthehook.com/stories/2007/07/05/COVER-jackManahan-I.rtf.aspx 2009年7月3日閲覧。 
  2. ^ Establishing the identity of Anna Anderson Manahan” (英語). Nature Genetics. 2014年2月1日閲覧。
  3. ^ 山口敏太郎「アナスタシアの悲劇」『不思議大陸アトランティア 発動編』1号、力石幸一編、徳間書店〈TOWN MOOK〉、2009年、104頁。ISBN 978-4-19-710208-2


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アンナ・アンダーソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 14:43 UTC 版)

アナスタシア・ニコラエヴナ」の記事における「アンナ・アンダーソン」の解説

詳細は「アンナ・アンダーソン」を参照 僭称者の中で最も知られているアンナ・アンダーソンは1920年2月18日ドイツ国ベルリン自殺しようとしていたところを発見された。以下は当時取り調べた警察残した公式記録である。 「 1920年2月18日ベルリン身元不明の娘による自殺未遂事件昨日午後9時、20歳前後の娘が自殺意思持って、ベントラーからラントヴェール運河英語版)に飛び込んだ。娘は巡査部長助け上げられ、ルツォウ通りエリーザベト病院収容された。所持品中には身分証明書貴重品に関する物は皆無で、娘は自分身元についても、自殺未遂動機について口を閉ざして語ろうとしない。 」 自殺未遂から2年後1922年6月30日に、突然倒れてモルヒネ投与されアンダーソン保護してくれたクライスト男爵夫妻自分アナスタシアであると話したエカテリンブルク惨劇時に銃弾受けて意識失っていたところを、まだ生きていることに気付いた一家同情的なアレクサンドル・チャイコフスキーという名の警護兵によって助けられチャイコフスキー一家とともにロシアからルーマニア王国向けて脱出する途中彼の子供を身篭った。チャイコフスキーブカレスト市街戦戦死しアンダーソン産んだ男の子孤児院預けられたという。しかし、ルーマニア王マリア後援して実施され調査ではブカレスト当時市街戦があったという記録無く、彼女の息子アレクシスへの洗礼についてもすべての神父探したが、その記録該当する人物見付からなかった。 1925年7月17日、かつてアナスタシアフランス語家庭教師務めたピエール・ジリヤールとその夫人アンダーソン入院する病院訪れたが、そばの人に皇帝の子供達の元乳母でもある夫人のアレクサンドラ・テグレヴァ(通称シュラ)が誰なのか聞かれアンダーソンは「父の一番下の妹です」と答え、同じ時期訪問することが伝えられていたアナスタシア叔母オリガ・アレクサンドロヴナ勘違いしていた。それから3ヵ月後に2人は再び見舞ったが、アンダーソンが手にオーデコロン振り掛けるのを見てシュラ夫人アナスタシアがよく同じよう真似をしていたのを思い出した。ジリヤールが過去、特にシベリアでのことについて色々聞き出そうとして大し成果得られなかったが、翌日帰り際にはシュラ夫人愛しさと懐かしさのあまり、目に涙を浮かべていたという。ジリヤールはアンダーソン皇帝一家の生活の細部について知っていることはすべてが発表されている回顧録類い読んだり、写真見て知ったことに過ぎないとして彼女を「俗悪な女山師」「一級品女優」と評した第一次世界大戦中1916年当時ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒアレクサンドラの兄)が単独講和話し合うためにアレクサンドロフスキー宮殿訪れたという情報アンダーソンによって初め公に暴露された。敵国同士であったためにこの情報極秘とされており、大公本人訪問したことを否定したルートヴィヒアンダーソンを「あの女ペテン師だ」「狂人だ」「恥知らずの女」と徹底的に罵り探偵雇って調査させて1927年3月にはアンダーソンなる女性は実はポーランド生まれ農民出身工場労働者フランツィスカ・シャンツコフスカ(アンダーソン登場する直前失踪)であることを突き止めた。ところが、対面したシャンツコフスカの2人の兄と2人の姉が最終的に彼女を自分達の妹として認めることを拒否した片方の兄と姉は最初は彼女が妹であることを認めていた)。ルートヴィヒ戦時中ロシア訪問について、アンダーソン支持する証言30年近く経過した後から次々寄せられたが、その中の一つ戦時中ヘッセン大公訪問したという情報入手しているという亡命者これまで7人も出会ったという、アンダーソン関係者から情報入手している可能性少なからずあったことを示唆するものでもあった。 また、ツァールスコエ・セロー離宮敷地内にある民間病院にかつて負傷兵として入院していたフェリックス・ダッセルは1927年に、マリアアナスタシアしか知り得ないような病院に関する誤った質問いくつかぶつけたが、アンダーソンはこれを見事にクリアした。ダッセルマリアアナスタシア毎日病院訪れ時にはアレクセイ連れ立って来たと言った時にはアンダーソンはこれを姉妹1週間に2回か3回か行けず、アレクセイ連れて行ったことは一度も無いと正しく指摘したまた、知り合いロシア人老大佐について話した時、アンダーソン懐かしい声で「ポケット手を入れていた男」と言った。これはダッセルもすっかり忘れていたが、「ポケットの男」というのがアナスタシアがこの無作法老大に付けあだ名であったダッセルは「ここで突然、彼女を確認した間違い無い」と述べている。1958年5月23日法廷供述で、クライスト男爵夫人偶然にアンダーソン対面する何年前にダッセル男爵家訪れてツァールスコエ・セロー病院での話をしていたことを証言したアナスタシア幼少時からアレクサンドロフスキー宮殿長期間滞在して彼女をよく知っていたリリー・デーンは40年空白があったにも関わらず1957年1週間毎日数時間ずつアンダーソン会い宮中些細な出来事についても詳しく知っていたことに驚き、声や話し方アナスタシアそのものであると感じ本物だと確信したことを正式に確認している。ニコライ2世のいとこのアンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公アンダーソンアナスタシア認めていたが、オリガ・アレクサンドロヴナ亡くなる直前に彼から「自分騙されていたようだアンダーソン夫人本当にアナスタシアなのかどうか確信持てなくなった」と打ち明けられたと述べている。 アナスタシアとして認知してもらい、一家遺産相続するためにアンダーソン支持者長年続けた法廷闘争1970年2月17日終焉迎えた西ドイツ最高裁判所アナスタシアであることを証明するのに十分な証拠提供していないということ訴え退けた。この裁判明確な決着付けず、独自の判断も示さなかった。アンナ・アンダーソンの事件20世紀通してドイツの法廷における最長記録を持つ訴訟事件となったアンダーソン1984年2月12日肺炎亡くなり火葬にされた。死後10年経過した1994年に彼女が生前手術した際に摘出した腸の一部組織標本使用してDNA鑑定実施された。ところが、専門家ミトコンドリアDNA比較した結果アレクサンドラの一番上の姉ヴィクトリアの孫、エディンバラ公フィリップ王配のものとは遺伝的な繋がり認められなかった。一方で、フランツィスカ・シャンツコフスカの甥とはミトコンドリアDNA一致したことが明らかにされた。一部アンダーソン支持者は彼女が大公女では無かった証明するこの鑑定結果素直に受け入れた

※この「アンナ・アンダーソン」の解説は、「アナスタシア・ニコラエヴナ」の解説の一部です。
「アンナ・アンダーソン」を含む「アナスタシア・ニコラエヴナ」の記事については、「アナスタシア・ニコラエヴナ」の概要を参照ください。

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