アンナ・アンダーソン
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アンナ・アンダーソン(Anna Anderson、1896年12月16日 - 1984年2月12日)は、ロシア皇女アナスタシアを自称したアメリカ人女性。王族偽装者の一人である。
注釈
出典
- ^ Tucker, William O., Jr. (5 July 2007), “Jack & Anna: Remembering the czar of Charlottesville eccentrics”, The Hook (Charlottesville, Virginia: Better Publications LLC) 2009年7月3日閲覧。
- ^ “Establishing the identity of Anna Anderson Manahan” (英語). Nature Genetics. 2014年2月1日閲覧。
- ^ 山口敏太郎「アナスタシアの悲劇」『不思議大陸アトランティア 発動編』1号、力石幸一編、徳間書店〈TOWN MOOK〉、2009年、104頁。ISBN 978-4-19-710208-2。
- 1 アンナ・アンダーソンとは
- 2 アンナ・アンダーソンの概要
- 3 関連作品
アンナ・アンダーソン
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「アナスタシア・ニコラエヴナ」の記事における「アンナ・アンダーソン」の解説
詳細は「アンナ・アンダーソン」を参照 僭称者の中で最も知られているアンナ・アンダーソンは1920年2月18日にドイツ国のベルリンで自殺しようとしていたところを発見された。以下は当時取り調べた警察が残した公式記録である。 「 1920年2月18日、ベルリン。身元不明の娘による自殺未遂事件。昨日、午後9時、20歳前後の娘が自殺の意思を持って、ベントラー橋からラントヴェール運河(英語版)に飛び込んだ。娘は巡査部長に助け上げられ、ルツォウ通りのエリーザベト病院に収容された。所持品の中には身分証明書や貴重品に関する物は皆無で、娘は自分の身元についても、自殺未遂の動機についても口を閉ざして語ろうとしない。 」 自殺未遂から2年後の1922年6月30日に、突然倒れてモルヒネを投与されたアンダーソンは保護してくれたクライスト男爵夫妻に自分がアナスタシアであると話した。エカテリンブルクの惨劇時に銃弾を受けて意識を失っていたところを、まだ生きていることに気付いた一家に同情的なアレクサンドル・チャイコフスキーという名の警護兵によって助けられ、チャイコフスキーの一家とともにロシアからルーマニア王国へ向けて脱出する途中に彼の子供を身篭った。チャイコフスキーはブカレストの市街戦で戦死し、アンダーソンが産んだ男の子は孤児院に預けられたという。しかし、ルーマニア王妃マリアが後援して実施された調査ではブカレストで当時市街戦があったという記録は無く、彼女の息子アレクシスへの洗礼についてもすべての神父を探したが、その記録に該当する人物は見付からなかった。 1925年7月17日、かつてアナスタシアのフランス語の家庭教師を務めたピエール・ジリヤールとその夫人がアンダーソンが入院する病院を訪れたが、そばの人に皇帝の子供達の元乳母でもある夫人のアレクサンドラ・テグレヴァ(通称シュラ)が誰なのか聞かれてアンダーソンは「父の一番下の妹です」と答え、同じ時期に訪問することが伝えられていたアナスタシアの叔母のオリガ・アレクサンドロヴナと勘違いしていた。それから3ヵ月後に2人は再び見舞ったが、アンダーソンが手にオーデコロンを振り掛けるのを見て、シュラ夫人はアナスタシアがよく同じような真似をしていたのを思い出した。ジリヤールが過去、特にシベリアでのことについて色々聞き出そうとして大して成果が得られなかったが、翌日の帰り際にはシュラ夫人は愛しさと懐かしさのあまり、目に涙を浮かべていたという。ジリヤールはアンダーソンが皇帝一家の生活の細部について知っていることはすべてが発表されている回顧録の類いを読んだり、写真で見て知ったことに過ぎないとして彼女を「俗悪な女山師」「一級品の女優」と評した。 第一次世界大戦中の1916年に当時のヘッセン大公のエルンスト・ルートヴィヒ(アレクサンドラの兄)が単独講和を話し合うためにアレクサンドロフスキー宮殿を訪れたという情報がアンダーソンによって初めて公に暴露された。敵国同士であったためにこの情報は極秘とされており、大公本人も訪問したことを否定した。ルートヴィヒはアンダーソンを「あの女はペテン師だ」「狂人だ」「恥知らずの女」と徹底的に罵り、探偵を雇って調査させて1927年3月にはアンダーソンなる女性は実はポーランド生まれの農民出身の工場労働者フランツィスカ・シャンツコフスカ(アンダーソンが登場する直前に失踪)であることを突き止めた。ところが、対面したシャンツコフスカの2人の兄と2人の姉が最終的に彼女を自分達の妹として認めることを拒否した(片方の兄と姉は最初は彼女が妹であることを認めていた)。ルートヴィヒの戦時中のロシア訪問について、アンダーソンを支持する証言が30年近く経過した後から次々に寄せられたが、その中の一つが戦時中のヘッセン大公が訪問したという情報を入手しているという亡命者にこれまで7人も出会ったという、アンダーソンが関係者から情報を入手している可能性が少なからずあったことを示唆するものでもあった。 また、ツァールスコエ・セローの離宮の敷地内にある民間病院にかつて負傷兵として入院していたフェリックス・ダッセルは1927年に、マリアとアナスタシアしか知り得ないような病院に関する誤った質問をいくつかぶつけたが、アンダーソンはこれを見事にクリアした。ダッセルがマリアとアナスタシアは毎日病院を訪れ、時にはアレクセイも連れ立って来たと言った時には、アンダーソンはこれを姉妹は1週間に2回か3回しか行けず、アレクセイを連れて行ったことは一度も無いと正しく指摘した。また、知り合いのロシア人老大佐について話した時、アンダーソンは懐かしい声で「ポケットに手を入れていた男」と言った。これはダッセルもすっかり忘れていたが、「ポケットの男」というのがアナスタシアがこの無作法の老大佐に付けたあだ名であった。ダッセルは「ここで突然、彼女を確認した。間違い無い」と述べている。1958年5月23日の法廷の供述で、クライスト男爵夫人が偶然にもアンダーソンと対面する何年も前にダッセルが男爵家を訪れてツァールスコエ・セローの病院での話をしていたことを証言した。 アナスタシアの幼少時からアレクサンドロフスキー宮殿に長期間滞在して彼女をよく知っていたリリー・デーンは40年の空白があったにも関わらず、1957年に1週間毎日数時間ずつアンダーソンと会い、宮中の些細な出来事についても詳しく知っていたことに驚き、声や話し方がアナスタシアそのものであると感じ、本物だと確信したことを正式に確認している。ニコライ2世のいとこのアンドレイ・ウラジーミロヴィチ大公もアンダーソンをアナスタシアと認めていたが、オリガ・アレクサンドロヴナは亡くなる直前に彼から「自分は騙されていたようだ。アンダーソン夫人が本当にアナスタシアなのかどうか確信が持てなくなった」と打ち明けられたと述べている。 アナスタシアとして認知してもらい、一家の遺産を相続するためにアンダーソンの支持者が長年続けた法廷闘争は1970年2月17日に終焉を迎えた。西ドイツの最高裁判所はアナスタシアであることを証明するのに十分な証拠を提供していないということで訴えを退けた。この裁判に明確な決着を付けず、独自の判断も示さなかった。アンナ・アンダーソンの事件は20世紀を通してドイツの法廷における最長の記録を持つ訴訟事件となった。 アンダーソンは1984年2月12日に肺炎で亡くなり、火葬にされた。死後10年が経過した1994年に彼女が生前に手術した際に摘出した腸の一部組織の標本を使用してDNA鑑定が実施された。ところが、専門家がミトコンドリアDNAを比較した結果、アレクサンドラの一番上の姉ヴィクトリアの孫、エディンバラ公フィリップ王配のものとは遺伝的な繋がりが認められなかった。一方で、フランツィスカ・シャンツコフスカの甥とはミトコンドリアDNAが一致したことが明らかにされた。一部のアンダーソン支持者は彼女が大公女では無かったと証明するこの鑑定の結果を素直に受け入れた。
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