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アンドレイ・ メドベデフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/05/25 13:51 UTC 版)

 アンドレイ・メドベデフ
基本情報
ラテン文字名 Andriy Medvedev
国籍 ウクライナの旗 ウクライナ
出身地 同・キエフ
生年月日 1974年8月31日(35歳)
身長 193cm
体重 93kg
利き手
バックハンド 両手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1991年
引退年 2001年
ツアー通算 11勝
シングルス 11勝
ダブルス 0勝
生涯通算成績 350勝250敗
シングルス 321勝213敗
ダブルス 29勝37敗
4大大会最高成績・シングルス
全豪 ベスト8(1995)
全仏 準優勝(1999)
全英 4回戦(1994)
全米 ベスト8(1993)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 4位
ダブルス 185位
  

アンドレイ・メドベデフウクライナ語Андрій Медведєв(アンドリー・メドヴェージェウ); ラテン文字表記:Andriy Medvedev, 1974年8月31日 - )は、ウクライナキエフ出身の男子プロテニス選手。1999年全仏オープン男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは4位。ATPツアーでシングルス11勝を挙げる(ダブルス優勝はない)。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長193cm、体重93kgの長身選手。

母親の手ほどきで、8歳からテニスを始める。姉のナタリア・メドベデワもプロテニス選手で、女子ツアーで世界ランキング23位を記録した有名選手である。1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原発爆発事故により、同国内でテニスの屋外練習を続けていた当時11歳の彼や姉が健康上の影響を被った、という説も語られている。

1991年にプロ入りした。1993年全仏オープンでベスト4進出、準決勝でセルジ・ブルゲラに敗れる。ブルゲラには翌1994年の同大会でも、準々決勝で敗れた。それからしばらく低迷期が続き、1999年全仏オープンでは世界ランキング100位から決勝に進出した。これは同大会の男子決勝進出者でも、史上最低順位の記録である。その決勝戦では第13シードのアンドレ・アガシから最初の2セットを 6-1, 6-2 で奪ったが、第3セットの土壇場からアガシが反撃を開始し、メドベデフは後半の3セットを 4-6, 3-6, 4-6 で落として準優勝に終わった。アガシはこの優勝により、宿願の4大大会完全制覇を達成した。この年の全仏オープンは期間中の雨が多く、メドベデフは“最も遅いクレーコート”の得意な選手として勝ち上がったと言われた。

メドベデフは2001年のシーズンを最後に現役を引退し、ロシアサンクトペテルブルクの室内コートの大会が最後の試合になった。

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アンドレイ・メドベデフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/05 06:04 UTC 版)

アンドレイ・メドベデフ
基本情報
ラテン文字名 Andriy Medvedev
国籍 ウクライナの旗 ウクライナ
出身地 同・キエフ
生年月日 1974年8月31日(37歳)
身長 193cm
体重 93kg
利き手
バックハンド 両手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1991年
引退年 2001年
ツアー通算 11勝
シングルス 11勝
ダブルス 0勝
生涯通算成績 350勝250敗
シングルス 321勝213敗
ダブルス 29勝37敗
4大大会最高成績・シングルス
全豪 ベスト8(1995)
全仏 準優勝(1999)
全英 4回戦(1994)
全米 ベスト8(1993)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 4位
ダブルス 185位

アンドレイ・メドベデフウクライナ語Андрій Медведєв(アンドリー・メドヴェージェウ); ラテン文字表記:Andriy Medvedev, 1974年8月31日 - )は、ウクライナキエフ出身の男子プロテニス選手。1999年全仏オープン男子シングルス準優勝者。シングルス自己最高ランキングは4位。ATPツアーでシングルス11勝を挙げる(ダブルス優勝はない)。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。身長193cm、体重93kgの長身選手。

母親の手ほどきで、8歳からテニスを始める。姉のナタリア・メドベデワもプロテニス選手で、女子ツアーで世界ランキング23位を記録した有名選手である。1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原発爆発事故により、同国内でテニスの屋外練習を続けていた当時11歳の彼や姉が健康上の影響を被った、という説も語られている。

1991年にプロ入りした。1993年全仏オープンでベスト4進出、準決勝でセルジ・ブルゲラに敗れる。ブルゲラには翌1994年の同大会でも、準々決勝で敗れた。それからしばらく低迷期が続き、1999年全仏オープンでは世界ランキング100位から決勝に進出した。これは同大会の男子決勝進出者でも、史上最低順位の記録である。その決勝戦では第13シードのアンドレ・アガシから最初の2セットを 6-1, 6-2 で奪ったが、第3セットの土壇場からアガシが反撃を開始し、メドベデフは後半の3セットを 4-6, 3-6, 4-6 で落として準優勝に終わった。アガシはこの優勝により、宿願の4大大会完全制覇を達成した。この年の全仏オープンは期間中の雨が多く、メドベデフは“最も遅いクレーコート”の得意な選手として勝ち上がったと言われた。

メドベデフは2001年のシーズンを最後に現役を引退し、ロシアサンクトペテルブルクの室内コートの大会が最後の試合になった。

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