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阪神タイガース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/06/02 23:36 UTC 版)
(アンチ阪神 から転送)
阪神タイガース(はんしんタイガース、Hanshin Tigers)は、日本のプロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。現存する日本のプロ野球球団では読売ジャイアンツに次ぐ古い球団である[1][注釈 1]。
運営法人は株式会社阪神タイガース。運営母体(親会社)は阪神電気鉄道(阪急阪神ホールディングス傘下)。
兵庫県を保護地域とし、同県西宮市にある阪神甲子園球場を本拠地としている。二軍(ウエスタン・リーグ)の本拠地は、同市にある阪神鳴尾浜球場[2]。
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- ^ 日本運動協会、天勝野球団、大日本東京野球倶楽部に続く日本で4番目のプロ野球チーム日本運動協会の後身として発足した宝塚運動協会を別個の球団として扱うと5番目、セミプロの大阪毎日野球団(1920年 - 29年)も含めると6番目。
- ^ それまでの逆転ゲーム差のセ・リーグワースト記録は、1996年に巨人に逆転された広島の11.5ゲーム差だった。なお、プロ野球ワースト記録は、1963年に西鉄ライオンズに逆転された南海ホークスの14.5ゲーム差である。
- ^ この当時、甲子園は改装工事中で使用できなかったため、京セラドーム大阪で試合を行った。
- ^ 本来の英語では複数形のsを「ス」と発音するのは、単数形の語尾が無声音の場合だけであるが、戦前の日本の球団名ではタイガースのほかにイーグルス・セネタースがやはりあえて清音としている。戦後の命名ではセネタース・阪急ブレーブス・松竹ロビンス・近鉄パールス・東北楽天ゴールデンイーグルスがこれに該当する。
- ^ 1950年の開幕前に甲子園球場で開催されたオープン戦「大阪市長杯」で全チームが参加した入場行進の写真に、「阪神タイガース」のプラカードが写っているのが確認できる(鈴木龍二『プロ野球と共に五十年(上)』(恒文社、1984年)の口絵に収録)
- ^ 綱島理友監修の書籍『スポーツマスコット図鑑』〔2009年発行〕では、”1984年ごろ”と記述
- ^ なお、特許電子図書館ウェブサイトでも確認できる商標画像は、手書きでなされたものである。
- ^ 井上章一『阪神タイガースの正体』(太田出版、2001年)によると、阪神は甲子園球場へのナイター設備の設置(1956年)が大阪球場より遅れたことで観客動員が低迷し、1950年代前半は南海の観客動員は阪神を上回った。ナイター設置後も1959年からは3年続けて南海を下回っていた。(同書P76、94〜109)
- ^ 1961年に刊行した『毎日放送十年史』では南海との契約が営業に貢献したと記したが、1991年に刊行した『毎日放送の四〇年』の中では1971年に甲子園の阪神・巨人戦の中継枠2試合を確保したことを「"虎の子"の二試合、スポーツ担当だけでなく、全社あげて晴天を祈る気持ちだった。」と記すほど状況は変化していた(『阪神タイガースの正体』P90〜91)。
- ^ 南海と毎日放送との契約は、1960年に南海が契約額を引き上げたことから、1961年にはプロ野球中継自体を大幅に削減していた。
- ^ 『毎日放送の四〇年』には1970年代の関西地区のプロ野球ファンについて「圧倒的に阪神タイガースのファンが多く、次いで巨人、さらに間をおいて南海、阪急、近鉄である」と記し、その対応として同局が「ナイター中継は阪神、巨人を中心にしたセ・リーグに主眼を置き、パ・リーグ在阪3球団のカードを交え…選ぶのが基本姿勢」との記述がある(『阪神タイガースの正体』P91)。
- ^ その一方、読売新聞系の「スポーツ報知」は、スポーツ新聞として唯一、球団発行のタイガース公式イヤーブックに広告が掲載されていない。ただし、同じく読売系列の讀賣テレビ放送の広告は掲載されている。
- ^ 書籍「プロ野球12球団全選手百科名鑑」シリーズでは、原則各球団の球団歌を記載しているが、「阪神タイガースの歌」は通称の方で明記されている。
- ^ 星野は巨人への反骨心とすでにAクラス入りが決まっていたことから真ん中にボールを集めたといわれるが、カチカチになった阪神打線はこれを打てなかった(詳しくは中田潤の「新庄くんは、アホじゃない!」を参照)。
- ^ 山際淳司のドキュメント小説では、新幹線内で選手が持ち込んだラジオの試合中継をナインが聞いており、中日の勝利が決まった途端に王貞治が嬉しさの余り叫んだ、と描写されている。この時の情景は、翌年放映のテレビアニメ『侍ジャイアンツ』第38話に取り入れられている。
- ^ この試合はプロ野球の公式戦初となる「勝った方が優勝」となる事実上の優勝決定戦だった。
- ^ この際、タクシー1台が騒ぎに巻き込まれて車体に損傷を受けている。試合告知の看板への損傷などもあった(上記読売新聞記事による)。
- ^ 後藤和昭は「阪神選手は翌日までロッカールームに缶詰めにされた」と語っているが、「19時にファンが引きあげた」という当時の報道とは食い違いを見せている。
- ^ 制作時点ではパシフィック・リーグの覇者が決まっていなかったため、「阪神 - パ・リーグ優勝チーム」という表記だった。
- ^ 『関西の私鉄』には「(阪神百貨店の)祝優勝のペナント、店員用ワッペンは「その日」のために、倉庫で眠っている」とあるが、これが1985年に使われたかどうかは不明。
- ^ 翌年からセ・リーグの規定が改正されて延長は12回までとなったため、このような延長15回の試合が見られる可能性は日本シリーズのみとなった。
- ^ a b 球団史1985年度版、9頁。
- ^ 一般的に大阪府の球団であると誤認されているが、保護地域は兵庫県であるため、大阪府内で興行するためには大阪府を保護地域とするオリックス・バファローズの許諾を得なくてはならない。
- ^ 球団史1985年度版、43頁。
- ^ 日本職業野球連盟は現在の日本野球機構の源流に当る組織である。
- ^ 球団史1985年度版、79-85頁。
- ^ 球団史1985年度版、97-101頁。
- ^ 球団史1985年度版、142-149頁。
- ^ 球団史1985年度版、195-198頁。
- ^ 球団史1985年度版、208-212頁。
- ^ 球団史1985年度版、261-262頁。
- ^ 球団史1985年度版、383頁。
- ^ Equaling Oh's HR record proved difficult
- ^ この対戦は互いにホームグラウンドで全勝したため、内弁慶シリーズと呼ばれた。
- ^ この年、1985・1986年以来20年ぶりに2年連続のAクラス及び球団初の2年連続80勝を達成し、2005年から実施された実数での観客動員数は2年連続で300万人を超え、1試合平均観客動員数は12球団一の4万3,000人だった。
- ^ 2011年の北海道日本ハムファイターズと同率。
- ^ 参照:『げんまつWEBタイガース歴史研究室』内「阪神タイガース観客動員数」/『プロ野球Freak』内「阪神タイガース」(2011年観客動員数)
- ^ セ4.12! 阪神18年ぶり甲子園開幕 デイリースポーツ 2011年3月25日閲覧
- ^ 登録番号第1543155号、1978年4月24日出願、1982年10月27日登録。
- ^ タイガースショップバイヤー・トッシーのとら日記 丸虎マーク天井照明について(2006年4月29日更新分)。
- ^ 登録番号第1482910号、1976年11月10日出願、1981年10月30日登録。
- ^ 登録番号第1727154号、出願日1981年4月25日、商標登録10月31日。
- ^ 綱島理友・著、綿谷寛・絵『プロ野球ユニフォーム物語』及び、『阪神タイガース70年史』内記事「綱島理友のタイガース意匠学」(P105)。
- ^ 登録番号:第589835号、出願日:1961年5月25日。
- ^ 登録番号:第1553794号、1978年4月19日出願、1982年12月24日登録。
- ^ 登録番号:第1621729号)。
- ^ 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年7月28日号11-13ページ復刻ユニフォーム物語」
- ^ 永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』(紀伊國屋書店、2003年)P156〜157
- ^ 『関西テレビ放送10年史』(1968年)
- ^ 『阪神タイガースの正体』P329。
- ^ 球団史1985年度版、44頁。
- ^ これは、池田が足もとの悪いセンター付近の芝に足を取られて転倒し捕球出来なかったためとされたが、この年は阪神が僅差で優勝を逃したことから、これを「世紀の落球」と呼ぶようになり、池田は戦犯扱いされた。
- ^ この時、オーダー表提出係を担っていた岡本伊三美は、先発投手に「江夏」と書かれているのを見て「本当にこれでいいんですか?」と金田に念押ししている。
- ^ a b c d e 読売新聞1973年10月23日23頁
- ^ a b c 四国新聞1973年10月23日11頁
- ^ 朝日新聞大阪本社社会部編『関西の私鉄』(清文堂、1981年)P178。
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