アンシュルス【(ドイツ)Anschluß】
読み方:あんしゅるす
アンシュルス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/23 04:54 UTC 版)
アンシュルス(独: Anschluß; Der Anschluss Österreichs an das Deutsche Reich)は、1938年3月12日にドイツ国がオーストリアを併合した出来事を指す語で、日本語では独墺合邦(どくおうがっぽう)、オーストリア併合(オーストリアへいごう)等と訳される。本来の「アンシュルス」「Anschluß(1996年ドイツ語正書法改革以降の表記:Anschluss))」は「接続・連結」を意味するドイツ語の普通名詞であったが、ナチスの言語の影響から固有名詞化したドイツ語や他の言語においては1938年のドイツによるオーストリア併合を指すようになった。
- ^ 北村厚 2020, p. 37.
- ^ 第61条第2項に「ドイツ系オーストリア人はドイツと合同の後、ドイツ国民議会に参加する権利を与えられる」という条文がある。
- ^ a b c 北村厚 2020, p. 107.
- ^ 北村厚 2000, p. 105-106.
- ^ 北村厚 2000, p. 107.
- ^ ドイツ国家社会主義労働者党を前身とし、1926年に成立した政党。日本では「オーストリア・ナチス」党と呼ばれる。
- ^ “Verordnung der Bundesregierung vom 19. Juni 1933, womit der Nationalsozialistischen Deutschen Arbeiterpartei (Hitlerbewegung) und dem Steirischen Heimatschutz (Führung Kammerhofer) jede Betätigung in Österreich verboten wird”. BGBl. Nr. 240/1933. 2020年11月1日閲覧。
- ^ a b 北村厚 2020, p. 46.
- ^ 北村厚 2020, p. 47-48.
- ^ a b 北村厚 2020, p. 48.
- ^ 「ヒトラーがドルフスを殺したことには一点の疑いも無い」「彼は性的変質者だ、バカだ」「もはやナチズムとファシズムは同じ飛行機に乗ることは無い」など。シュターレンベルク訪伊時の発言。児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』
- ^ 北村厚 2020, p. 49.
- ^ ただし、この要請文はドイツからの顧問が作成したものであり、ザイス=インクヴァルトは首相就任まで打てないと難色を示していた。
- ^ 合併賛成九十九パーセント、国民投票『大阪毎日新聞』1938年(昭和13年)4月12日夕刊
- ^ この時、オーストリアを代表するオーケストラであるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団も解散させられそうになるなど、クラシック音楽の中心地であったオーストリアの文化も否定されていた。
- ^ アンネ・フランクを逮捕したことで知られるカール・ジルバーバウアーはそうした典型である。
- ^ “「ナチスは全てが悪かったわけではない」 オーストリア「右傾化」世論調査に海外で波紋”. Jcast News. (2013年3月12日)
アンシュルス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 14:23 UTC 版)
「マクシミリアン・デ・アンゲリス」の記事における「アンシュルス」の解説
戦後、オーストリア連邦軍に大尉として復帰、1921年7月に少佐に昇進した。1926年1月に第3旅団参謀に転じ、1927年11月からエンス陸軍学校の戦術教官になった。1929年1月に中佐に昇進。1933年6月に大佐に昇進し、9月に士官大学副校長に任命された。デ・アンゲリスは軍部内における熱心な国家社会主義の信奉者であった。1934年にオーストリア・ナチ党がクーデターを起こした際は、ウィーン地区司令官を務めるつもりでいた。1937年には非合法の軍部内ナチ組織の指導的立場にあった。 1938年3月、アルトゥル・ザイス=インクヴァルトが短命内閣を組織した際、ヴィルヘルム・ツェーナー(de:Wilhelm Zehner)大将(1ヶ月後におそらくゲシュタポにより暗殺された)に代わる国防次官として入閣した。国防次官としてアンシュルスに際するオーストリア軍のドイツ国防軍への編入に影響力を及ぼし、反ナチス的な将校(前参謀総長アルフレート・ヤンザ de:Alfred Jansaなど)を退役・更迭させた。1938年3月に少将に昇進、同年7月に歩兵第30連隊参謀、ついで8月にユーターボグ地区司令官に転じる。11月に第XV軍区砲兵司令官、翌年6月に第3軍集団司令部参謀に転じた。
※この「アンシュルス」の解説は、「マクシミリアン・デ・アンゲリス」の解説の一部です。
「アンシュルス」を含む「マクシミリアン・デ・アンゲリス」の記事については、「マクシミリアン・デ・アンゲリス」の概要を参照ください。
アンシュルス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/27 23:37 UTC 版)
エンダーは1934年から監査院長を務めたが、1938年にナチス・ドイツによるアンシュルスがおこり、エンダーはその地位を失った。ゲシュタポに投獄された後、ダッハウ強制収容所に収容された。1945年に連合国により解放された。
※この「アンシュルス」の解説は、「オットー・エンダー」の解説の一部です。
「アンシュルス」を含む「オットー・エンダー」の記事については、「オットー・エンダー」の概要を参照ください。
アンシュルス(オーストリア併合)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 21:57 UTC 版)
「アルトゥル・ザイス=インクヴァルト」の記事における「アンシュルス(オーストリア併合)」の解説
詳細は「アンシュルス」を参照 1938年2月26日にシュシュニックは「オーストリアの独立放棄せず」と宣言した。これに反発したオーストリア・ナチ党がドイツとの併合を求めてテロを含めたデモを起こしたが、内相ザイス=インクヴァルトは取り締まらないようにとオーストリア警察に命令した。 この後、シュシュニックは24歳以上の国民によるドイツとの併合の賛否を問う国民投票を企図した(オーストリアのナチ支持者はほとんど10代か20代前半の若者だったので、その層を投票から排除すれば、併合案は否決されるとシュシュニックは踏んでいた)。シュシュニックはイタリアのベニート・ムッソリーニにこの案の支持を求めたが、ドイツとの関係悪化を恐れるムッソリーニからは賛同は得られなかった。ヒトラーはシュシュニックの国民投票案に激怒し、国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル大将にオーストリア侵攻計画「オットー計画」の実行準備を開始させた。 3月11日午前2時頃にドイツ軍部隊が国境に出動。オーストリア政府はヒトラーやヘルマン・ゲーリングから国民投票の延期、シュシュニックの首相辞任、ザイス=インクヴァルトの首相就任、ドイツに秩序維持の援助を求めることを要求された。ドイツ政府の要求を呑まざるを得ず、同日午後7時にシュシュニックは首相を辞任し、ヴィルヘルム・ミクラス大統領は後任としてザイス=インクヴァルトを首相に任命した。 首相となったザイス=インクヴァルトはただちにゲーリングからの指示でドイツ軍にオーストリア進駐を要請した。これに応じて、3月12日午前8時からフェードア・フォン・ボック大将指揮下でドイツ軍がオーストリアへ無血進駐を開始した。夜には首都ウィーンにドイツ軍が入った。市民はドイツ軍を熱狂的に歓迎した。3月13日にザイス=インクヴァルトは合併法(第1条で「オーストリアはドイツ国の一州である」と定める)を発布しようとしたが、大統領ミクラスが署名を拒否したため、ザイス=インクヴァルトの署名だけで合併法が発布された。 3月14日にヒトラーがウィーンへ入り、「ドイツ・オーストリア合併を正式に宣言する総統布告」を発令した。これをもってオーストリアはドイツの邦(州)の一つとなり、4月23日には「オストマルク州」と名付けられた。 なお1938年4月10日にはドイツのオーストリア併合について賛否を問う国民投票(選挙権20歳以上)が実施され、ドイツで99.08%、オーストリアで99.75%の支持票があった。
※この「アンシュルス(オーストリア併合)」の解説は、「アルトゥル・ザイス=インクヴァルト」の解説の一部です。
「アンシュルス(オーストリア併合)」を含む「アルトゥル・ザイス=インクヴァルト」の記事については、「アルトゥル・ザイス=インクヴァルト」の概要を参照ください。
アンシュルス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 07:34 UTC 版)
「クルト・シュシュニック」の記事における「アンシュルス」の解説
1938年2月12日、ベルヒテスガーデンでシュシュニックと会談したヒトラーは、オーストリア・ナチス指導者アルトゥル・ザイス=インクヴァルトを入閣させるよう強制して、シュシュニックも一旦はこれを受け入れた。一方で、2月24日にシュシュニックはオーストリアの独立維持を呼びかける演説を行い、24歳以上の国民によるドイツとの併合の賛否を問う国民投票を企図した。オーストリアのナチ支持者はほとんど10代か20代前半の若者だったので、その層を投票から排除すれば、併合案は否決されるとシュシュニックは踏んでいた。さらに、ドルフースが非合法化したオーストリア社会民主党とも極秘に交渉して国民投票への協力と引き換えに非合法化の取消を約束した。また、ムッソリーニにこの案の支持を求めたが、ドイツとの関係悪化を恐れるムッソリーニからは賛同は得られなかった。 3月9日、シュシュニックは13日に「ドイツとの合併」か「自主独立」かを選択させる国民投票を実施することを表明し、開票作業には祖国戦線を動員した。ヒトラーはシュシュニックの国民投票案に激怒し、3月10日に国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテルにオーストリア侵攻計画「オットー計画」の発動を命令した。同日、ドイツの侵攻作戦の情報が伝わると、シュシュニックは国民投票の中止を余儀なくされた。 3月11日午前2時頃にドイツ国防軍が国境に出動。オーストリア政府はヒトラーやヘルマン・ゲーリングから国民投票の延期、シュシュニックの首相辞任、ザイス=インクヴァルトの首相就任、ドイツに秩序維持の援助を求めることを要求された。大統領ヴィルヘルム・ミクラスは拒絶するように命じたが、シュシュニックはドイツとオーストリアに住むドイツ人同士が戦うことは道義的にも実際的(軍事力の差)にも無理があると考えてドイツ政府の要求を呑むことを決めた。同日午後7時にシュシュニックは首相を辞任し、ミクラスは後任としてザイス=インクヴァルトを首相に任命した。シュシュニックの辞任前の最後の演説は次の通りであった。 ドイツ政府は今日(1938年3月11日)、ミクラス大統領に最後通牒を手渡し、時間の制限を付けて、ドイツ政府によって指定された人物(ザイス=インクヴァルト)を首相に任命するように命じました…そうしないと、ドイツ軍がオーストリアに侵入するというのであります。労働者による暴動が起こり、血の河が流れ、オーストリア政府の手では制御出来ない事態が生じたという、ドイツで伝播された報道は一から十まで虚偽である事を、私は世界に向かって言明します。ミクラス大統領は、我々は力に屈服した、我々はこの恐ろしい時期に際してすら血を流す用意がなかったからだ、ということをオーストリア国民に告げるように私に求めました。我々は軍隊に対して抵抗しないように命じることを決定しました。 そういうわけで、私は心の心底から出るドイツ語の告別の言葉をもって、オーストリア国民にお別れを告げます。 神よ、オーストリアを守り給え! 首相となったザイス=インクヴァルトはただちに、ゲーリングからの指示でドイツ軍にオーストリア進駐を要請した。3月12日午前8時からフェードア・フォン・ボック指揮下のドイツ軍がオーストリアへ無血進駐を開始した。夜には首都ウィーンにドイツ軍が入った。市民はドイツ軍を熱狂的に歓迎した。3月13日にザイス=インクヴァルトは合併法(第1条で「オーストリアはドイツ国の一州である」と定める)を発布しようとしたが、大統領ミクラスが署名を拒否したため、ザイス=インクヴァルトの署名だけで合併法が発布された。4月10日にはドイツのオーストリア併合について賛否を問う国民投票(選挙権20歳以上)が実施され、ドイツで99.08%、オーストリアで99.75%の支持票があった。 シュシュニックはハプスブルク家復活による独墺合邦(アンシュルス)を望んでいたとも言われており、ナチスそのものに対しては嫌悪感を抱いていたが、ドイツとオーストリアは将来的には統一されるべきだという信念を抱いていた(これは当時のオーストリアの左右両派に見られた発想であり、決して彼特有のものではない)。このため、ナチス・ドイツに対する強硬策を打ち出すことには躊躇する傾向があったとも言われている。また、オーストリアを自国の衛星国と見ていたムッソリーニが、一転してドイツとの連携強化のためにドイツのオーストリア併合を容認する姿勢に方向転換したことも誤算であった。
※この「アンシュルス」の解説は、「クルト・シュシュニック」の解説の一部です。
「アンシュルス」を含む「クルト・シュシュニック」の記事については、「クルト・シュシュニック」の概要を参照ください。
アンシュルス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 06:33 UTC 版)
「アンシュルス」も参照 二重帝国のブラウナウに生まれたアドルフ・ヒトラー(1889年 - 1945年)は父の死んだ1903年以後、学問をうち捨てて画業に専念し、1905年にはリンツの高等実科学校を退学して、画家を志してウィーンの美術学校を1907年と1908年の2度受験したがいずれも失敗した。当時のヒトラーは、貧民街でどん底の生活を送っていた。彼はウィーンでの生活を振り返り、「息の根を止められそうなまむしの羽交いじめを、みずから体験したことのないものは、その毒牙に決して通暁することはできない」と述べている。そして、彼自身「ウィーンはわたしにとって最も根本的であったが、最も苦しい人生の学校であったし、今もそうである」と語り、自分をつくったのは20世紀初頭のウィーンだったとしている。ヒトラーは『我が闘争』(1924年)のなかでこう書いた。 「この国家の内部が空虚であり、それを救うことが不可能だと認めると私は気のめいる不満に襲われた。しかし同時に、この国家がなそうとしていることはドイツの民衆の不幸となることを確信をもって予感した。 この君主国の首都が示している民族国家、つまりチェコ、ポーランド、ハンガリー、ルテニア、セルビアの民族の混交は私には不快なものに思われたし、人類の風紀を乱す菌を忘れてはならない、それはユダヤ人、さらにまたユダヤ人だ…この町で暮らせば暮らすほど、ドイツ文化の古くからの中心地をそこないはじめた外国民の混交に対する私の憎しみは激しくなっていった。 この時期のオーストリアは部品を合わせて結びつける接着剤が古くもろくなってしまったモザイクのようなものだった。この傑作に触れないでいるかぎり、それはうわべの生存であなた方をごまかすことができる。しかし、一撃を加えられると、無数の塊に壊されるし、その一撃がいつもたらされるかだけが問題なのだ。この国が崩壊する時、ドイツ国民の解放がはじまるようにいつも思われるのだ」 第一次世界大戦後のサン・ジェルマン条約はドイツとオーストリアの合邦を禁止していたが、オーストリア人のドイツへの帰属意識は世界恐慌後の国内の経済的苦境と周辺国家の共産化、社会民主党とキリスト教社会党の間で繰り広げられた果てしない政権闘争などとともに強まっていった。1934年、オーストリア共和国(第一共和国)の首相エンゲルベルト・ドルフースがオーストリア独自の独裁体制を確立し、ウィーン市はその自治権を奪われた。しかし同年、アンシュルスには断固反対の立場を貫いていたドルフースがナチスによって暗殺された。 1938年3月13日、ウィーンに入城したアドルフ・ヒトラーは、2日後の3月15日、王宮前の英雄広場で「オーストリア合邦宣言」を行い、「ひとつの民族、ひとつの国家、ひとりの総統」を謳い上げた。アンシュルスの成立には、上記のような国内外の状況とならんで、ウィーンの人々が共和国の現状をひたすら憎んで「大帝国復活」を夢見たことも、その要因だったといわれている。無血でウィーン入りしたヒトラーは「市民の時代」の痕跡さえも根こそぎ奪った。アンシュルスはウィーン世紀末文化の抹殺の始まりでもあった。多様な民族と文化が交わるコスモポリタン都市としてのウィーンのあゆみは、こうして「国内から来た侵略者」によって中断を余儀なくされた。ウィーンのユダヤ人たちは突如バケツとブラシを持って集められ、道路磨きを強制させられ、その財産は貯蓄・不動産のみならず絵画コレクションも「アーリア化」のもとに没収された。ナチス親衛隊はウィーンでもユダヤ人虐殺の手を決して緩めることはなく、少なくとも6万人にのぼるウィーン人がホロコーストで殺害された。
※この「アンシュルス」の解説は、「世紀末ウィーン」の解説の一部です。
「アンシュルス」を含む「世紀末ウィーン」の記事については、「世紀末ウィーン」の概要を参照ください。
- アンシュルスのページへのリンク