アラクシ・ディギト・クリとは? わかりやすく解説

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アラクシ・ディギト・クリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 14:19 UTC 版)

アラクシ・ディギト・クリモンゴル語: Alaqši Digid Quri,中国語: 阿剌兀思剔吉忽里,? - 1227年)は、13世紀初頭にチンギス・カンに仕えたテュルク系オングト部族長。チンギス・カンの娘を妻としたことから駙馬(キュレゲン)と称し、アラクシの子孫はモンゴル帝国-大元ウルスにおいて「オングト駙馬王家」として尊重された。


  1. ^ 村上1972,204-205頁
  2. ^ 岡田2010,378-381頁
  3. ^ 『元史』巻118阿剌兀思剔吉忽里伝「阿剌兀思剔吉忽里、汪古部人、系出沙陀雁門之後。遠祖卜国、世為部長。金源氏塹山為界、以限南北、阿剌兀思剔吉忽里以一軍守其衝要」
  4. ^ 『元史』巻118阿剌兀思剔吉忽里伝「時西北有国曰乃蛮、其主太陽可汗遣使来約、欲相親附、以同拠朔方。部衆有欲従之者、阿剌兀思剔吉忽里弗従、乃執其使、奉酒六尊、具以其謀来告太祖。時朔方未有酒、太祖飲三爵而止、曰「是物少則発性、多則乱性」。使還、酬以馬五百・羊一千、遂約同攻太陽可汗。阿剌兀思剔吉忽里先期而至」
  5. ^ 志茂2013,812-813頁
  6. ^ 『元史』巻118阿剌兀思剔吉忽里伝「其妻阿里黒攜幼子孛要合与侄鎮国逃難、夜遁至界垣、告守者、縋城以登、因避地雲中。太祖既定雲中、購求得之、賜与甚厚、乃追封阿剌兀思剔吉忽里為高唐王、阿里黒為高唐王妃、以其子孛要合尚幼、先封其侄鎮国為北平王」
  7. ^ 那珂1907,329-330頁
  8. ^ 周2001,132-135頁


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