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アメリカ横断ウルトラクイズの各大会の詳細
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/04/25 14:07 UTC 版)
本記事では、日本テレビで放送された『アメリカ横断ウルトラクイズ』の各大会の詳細について記述する。
- この項目で述べる地名およびクイズ名称の表記は、番組内での表記に従うものとする。「CP」は「チェックポイント」の略記。
- 実際の大会では実施されたが放映されなかったクイズ(どろんこクイズの勝者決定戦など)や、席順決めのためのクイズ、3位決定戦、勝敗に無関係なクイズ(敗者予想クイズなど)は割愛する。また、各クイズの参加・通過人数は放送上でのものであり、実際とは異なる場合がある。
- 「決勝戦の結果」は放送上のポイントであり、実際と異なる場合がある。また、名前の順はテレビの画面通り。
- 決勝戦進出者・機内1位の氏名、年齢、職業は特記がない限り開催当時のものであり、現在のものではない。
- 各挑戦者にある番号は参加したときのネームプレートに書かれた番号を指す。
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- ^ 第1回放送の翌年の1978年8月31日にテレビ朝日で放送された「クイズタイムショック500回放送記念78日本一王座決定戦」に松尾、藤原の両決勝進出者が出演した。成績は松尾9問正解、藤原11問正解と今度は藤原の方が好成績をあげた。また、この放送では後に"今世紀最後"で機内クイズ1位を獲得しハワイまで進出した村田栄子が12問正解を達成している。
- ^ 同じく第5回第一次予選を突破した女性の中に婚約者がいると発表したが、この女性は成田のジャンケンで敗退した。
- ^ ディスコで朝まで寝ないで遊んでいたのが祟った、と福留にネタにされた。
- ^ 決勝地がパリだった第9回はエッフェル塔関連の問題だった。
- ^ a b c d 書籍『アメリカ横断ウルトラクイズ 4』には、4ポイント勝ち抜けと記されている。
- ^ 第2回でもハワイまで進出。後の第13回ではアメリカ横断ウルトラクイズの予選参加全13回皆勤ということで第一次予選で敗者復活し、オーストラリアまで進出している。
- ^ 第3週のエンディングにて、石川牧子は「再来週の木曜日」と決まり文句を変えている。
- ^ 農薬の付着したブドウを水洗いせず、そのまま食べたため。
- ^ 後に、第11回~第15回と"今世紀最後"の総合演出を担当する事になる日本テレビ・加藤就一。
- ^ 『ウルトラクイズ伝説』p.146 - 162
- ^ a b 高橋直樹のホームページによると、もう一つの敗者復活戦が行われており更に10名増えている(ロサンジェルスまで進出した挑戦者が成田の敗者席にいたところが映っており、それを指摘した視聴者による問い合わせが日本テレビに多数あったという)。
- ^ 当時サイパンからアラスカへの直行便が無かったため、勝者も成田経由でアンカレッジ国際空港へと旅立った。
- ^ 放送では10ポイント勝ち抜けとなっているが、書籍『アメリカ横断ウルトラクイズ 6』には12ポイント勝ち抜けと記されている。
- ^ a b c 第8回挑戦者のホームページによると、「金庫の鍵開け」の前に「逆さ言葉早押しクイズ」を行っていたという。結果、道蔦岳史が正解し敗者復活した(現に成田空港行きの敗者バスに道蔦が映っていた)。ちなみに書籍『アメリカ横断ウルトラクイズ 8』には、成田通過合計人数が55名となっている。
- ^ 1985年(昭和60年)当時、自由の女神が改修工事中という事情もあった。
- ^ 第9回の決勝戦は、第10回までの最長の収録時間で、挑戦者が誤答を連発してなかなか決着が付かなかったという(北川宣浩のホームページ内にある『クイズ王の本』ネット版より)。
- ^ お札は2つの座席にあったのだが、発見されたのは1つのみであった。
- ^ a b 永田喜彰のホームページによると、対戦相手予定だった人が急病で参加不可となったため永田は不戦勝だったという。そのため、成田に参加している挑戦者数は1名不足している(放送上では110名→55名のままで説明無し)。
- ^ 北川宣浩のホームページ内にある『クイズ王の本』ネット版によると、当初どろんこクイズを勝ち抜けた人数は26名であった。敗者復活戦の札上げ○×クイズが行われ、2名が復活。そのうちの1名が今大会優勝者の森田であった。
- ^ 北川宣浩のホームページ内にある『クイズ王の本』ネット版より
- ^ 北川宣浩のホームページ内にある『クイズ王の本』ネット版によると、新品ではなく中古品であったという。しかも熱気球を操縦するにはライセンスが必要なため、本人では使用出来ず。
- ^ 多数いたため、○×クイズを行っている。
- ^ 第12回挑戦者のホームページによると、当初勝ち残ったのが23名だったため札上げ○×クイズによる勝者決定戦が行われた(未放送)。それで敗者となった3名は、改めて泥んこプールへ飛び込まされたという。
- ^ 挑戦者都合による辞退者対策として、補欠制度がある。
- ^ 読売新聞1989年(平成元年)8月13日日曜日14版20面に第1問が、同12版の17面に敗者復活の記載がある。
- ^ 長戸勇人著『クイズは想像力・理論編』によると、40位の2名による同点決勝が行われていた。
- ^ 『ウルトラクイズ伝説』によると、逆ドロンコクイズだけでは決着がつかなかったため札上げ○×クイズで決定した。
- ^ 当時グァムからオーストラリアへの直行便が無かったため、グァム国際空港から成田経由でシドニー国際空港へ旅立った。
- ^ 第13回決勝戦は編集されており、実際の永田のポイントは-3。
- ^ 能勢一幸著『能勢一幸のクイズ全書1』によると、実際は2ポイントだった。
- ^ 能勢一幸著『能勢一幸のクイズ全書1』によると、実際は4ポイント勝ち抜けだった。
- ^ 第15回決勝戦は編集されており、実際の松原のポイントは+5。
- ^ 能勢一幸著『能勢一幸のクイズ全書1』によると、"危うく「おたく湯」になりかけた"と記載されている。
- ^ ただし、福澤が敗者に対し「来年がある」と励ましていた。
- ^ 田中健一「アメリカ横断ウルトラクイズ体験記」によれば、参加申し込みハガキは6万8000通届いた。
- ^ 第16回の海外進出者はクイズサークル所属者が多かった(ベスト5のメンバーは当時全員所属していた)が、番組内では一切触れられなかった。
- ^ 会場の説明では1931年(昭和6年)以前生まれの参加者は18名いるとのことだったが、グラウンドに降りた高齢参加者は14名だった。そのため14+14で、28名復活となった。
- ^ a b アメリカ大使館爆破事件の余波でビザの発給が大幅に遅れ、当初の日程から大幅に変更してしまい出場を辞退した挑戦者が続出した。補欠者で補充したものの、放送上言われている挑戦者人数に届かず3名不足となってしまった。
- ^ 実際には手品を披露したが、その余興としてクイズをやった部分だけが放映された。
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