アフトポル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 19:58 UTC 版)
アフトポルは黒海沿いの町で、海岸リゾート地。ブルガス州南東部に位置し、トルコとの国境に程近い。ブルガリアの海岸の最南端に位置する村である。 町は古代トラキア人の集落の上に位置し、トラキア人でも最古の住居地が新石器時代に存在していた。西暦紀元前430年ごろギリシャによって植民地化されたと見られている。古代ローマ帝国時代には、村はペロンティクス(Peronticus)と呼ばれ、蛮族の侵入による破壊からギリシャの指導者アガトーン(Agathon)によって再建され、その名をとってアガトポリス(Agathopolis)と命名された。別の情報源によると、村がアガトポリスと命名されたのは遅くとも紀元前323年だとしている。 中世には、村はビザンティン帝国とブルガリア帝国の間を行ったり来たりした。中世のソースのなかで、アフトポルは活気のある商港で、ビザンティンやイタリア、その他の船が多く出入りする場所として述べられている。14世紀のオスマン帝国の侵入によって、町はアフテンボル(Ahtenbolu)と呼ばれるようになった。町は1453年には完全にオスマン帝国の支配下となった。1498年のオスマン帝国の徴税所は158家族のキリスト教徒をリストしており、そのほとんどはギリシャ人の名前を持ち、残りはスラヴ人(ブルガリア人)の名前となっている。1898年には、アフトポルには410棟の住居があり、うち300はギリシャ人、110はブルガリア人のものであった。19世紀、町は依然として漁業と交易の町として栄え、地元民所有の多くの船が黒海、地中海沿いの各地と取引をしていた。ブドウ栽培も盛んであった。 アフトポルは海賊によって何度も焼き払われ破壊され(多くはコーカサスのラズ人による)、その中で最近のものは1918年におこり、町の大半が破壊された。町の要塞の遺構(高さ8メートル、幅3.5メートルに達する)、12世紀の聖ヤニ修道院、そして騎兵の彫刻のある泉のみが、古い時代から残された歴史的建造物となっている。このほかの歴史的建造物としては、1796年の昇天教会がある。 バルカン戦争の後、この地方はオスマン帝国からブルガリアに割譲され、町の人口の多くを占めたギリシャ人はギリシャへ移住し、東トラキア地方(特にブナルヒサル Bunarhisar)から逃れてきたブルガリア人と入れ替わった。 ウィキメディア・コモンズには、アフトポルに関連するカテゴリがあります。
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