アタリショック
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アタリショック(英語: Video game crash of 1983)とは、1982年のアメリカ合衆国における年末商戦を発端とする、北米のゲーム市場で起こった家庭用ゲーム機の売上不振のことである[1]。
注釈
出典
- ^ a b c 山田真司ゲーム・ケータイの音楽「<特集>音楽制作と情報処理の友好関係」『システム/制御/情報』第56巻、第5号、システム制御情報学会、226 - 231頁、2012年。
- ^ 『アタリショックと任天堂』kindle個人出版、2020年。
- ^ "Video Games Gain In Japan, Are Due For Assault On U.S.". The Vindicator. June 20, 1986。海外紙の記事なので元の日本語は不明だが、山内本人の言葉として"Atari collapsed because they gave too much freedom to third-party developers and the market was swamped with rubbish games."とある。
- ^ a b 社長が訊く「スーパーマリオ25周年」ファミコン発売当時の関係者へのインタビュー。当時の任天堂内部のアタリショックへの恐怖が語られている。
- ^ “都市伝説の「E.T.」ゲーム、30年ぶりに発掘”. CNN (2014年4月29日). 2014年5月11日閲覧。
- ^ ウェブサイト「Digital Press」を参照。
- ^ 参考として『ビルボード』1982年11月20日号、p.26の「Top 15 Video Games」(Google ブックス)。
- ^ 樺島榮一郎「コンテンツ産業の段階発展理論からみる一九七二〜八三年の北米ビデオ・ゲーム産業─いわゆる「アタリ・ショック」をどう解釈するか」『コンテンツ文化史研究』第4号、コンテンツ文化史学会、24 - 42頁、2010年。
- ^ Matt Barton, Bill Loguidice (2008年2月28日). “A History of Gaming Platforms: Atari 2600 Video Computer System/VCS” (英語). Gamasutra. 2014年5月22日閲覧。
- ^ 藤田直樹「米国におけるビデオ・ゲーム産業の形成と急激な崩壊 ―現代ビデオ・ゲーム産業の形成過程(1)―」『經濟論叢』第162巻第5-6号、京都大學經濟學會、1998年11月、54-71頁、NAID 120000904860。
- ^ Atari Parts Are Dumpedニューヨーク・タイムズ
- ^ The Freeman PC Museum - PC Timeline
- ^ a b ファミコンの生みの親とスーパーマリオのデザイナーが登場! - GAME Watch
- ^ "NES". Icons. Season 4. Episode 5010
- 1 アタリショックとは
- 2 アタリショックの概要
- 3 概要
- 4 事象
- 5 世界的な影響
- 6 脚注
アタリショック
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「Atari 2600」の記事における「アタリショック」の解説
詳細は「アタリショック」を参照 『スペースインベーダー』などが大ヒットした一方で、1982年までにはサードパーティによるゲームソフトの粗製濫造が相次いでいた。 サードパーティーの一つであるミスティーク(英語版)は、Atari2600向けに性的な内容を含んだソフトを開発・販売してきた。その一つである『カスターズ・リベンジ』は、ジョージ・アームストロング・カスターがアメリカインディアン女性を強姦する内容となっており 、女性団体とインディアンの団体から抗議が寄せられるなど論争を呼んだ 。 また、コレコビジョンやエマーソン・アルカディアといった新しいゲーム機やコモドール64に代表される低価格パソコンとの競争にAtari 2600は晒されていた。さらに、売上の増大に生産が追い付いていなかった前年10月にアタリ社が販売代理店に対し翌年分の一括発注を求めた結果、品切れを避けるために販売代理店が水増しで発注をした。その誤った需要予測に基づいて生産を行ったアタリ社は過剰在庫を抱えることとなり、たとえば1982年春に発売された『パックマン』のAtari 2600移植版のカートリッジは、当時稼働していた本体の数を数百万本も上回る数が生産された。クリスマス商戦に向けて発売された『E.T.』も売上以上に大量の売れ残りが発生し、翌年には『パックマン』とともにニューメキシコ州アラモゴード市の埋め立て地「ビデオゲームの墓場」に埋められた。1982年の第4四半期から翌1983年の第1四半期にかけてアタリの売上は急落。これが発端となり、1985年までにAtari 2600のみならず米国家庭用ゲーム市場そのものが急速に衰退し、一連の凋落はのちにアタリショックとして知られるようになった。加えて、『E.T.』と『パックマン』はアタリショックを引き起こしたソフトとして知られるようになった。
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