アカイア公国
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アカイア公国(アカイアこうこく、 仏: Principauté d'Achaïe: Πριγκιπάτο της Αχαΐας)は、第4回十字軍参加のフランス騎士ギヨーム・ド・シャンリットによって南ギリシア・ペロポニソス半島に建国された封建国家(1205年 - 1432年)。形式上ラテン帝国、テッサロニキ王国の臣下であり、また自らの臣下として12の男爵を従えていた。正式な君主号はラテン語で「全アカイア公」(princeps totius Achaiae)。
- 1 アカイア公国とは
- 2 アカイア公国の概要
- 3 公国の形態
アカイア公国
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1204年、第4回十字軍によるコンスタンティノープル陥落ののち、ジョフロワ1世・ド・ヴィルアルドゥアンはアカイア大公の称号とともにコリントスを与えられた(アカイア公国)。ジョフロワ1世は第4回十字軍に従軍した同名の有名な歴史家(ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン)の甥である。 1205年~1208年にかけて、コリント人は、ギリシャの将軍レオ・スグロス(英語版)の指揮の下、アクロコリントスの要塞に拠ってフランク人の支配に抵抗した。フランスの騎士、ギヨーム1世・ド・シャンリットが参戦すると、1208年にレオ・スグロスは戦況を悲観してアクロコリントスの上から飛び降りて自殺した。だがコリント人はその後も1210年まで敵軍に抵抗し続けた。 抵抗の崩壊後、コリントスはアカイア公国の一部分となり、首都であるエーリスのアンドラヴィダ(英語版)からヴィルアルドゥアン家が支配するところとなった。コリントスは、他の十字軍国家であるアテネ公国と並んで、アカイアの北部国境の最後の重要な都市であった。ビザンツ帝国は1388年にコリントスを再征服し、モレアス専制公領の一部とした。その後、1395年にオスマン帝国がこの町を占領し、1403年にビザンツ帝国が奪回している。モレアス専制公テオドロス2世パレオロゴス(在位: 1407年 - 1443年)は、コリントス地峡を横断するエクサミリオンの壁を建設している。
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