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アイーダ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/28 08:19 UTC 版)

アイーダ』 (: Aida) は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲し、1871年に初演された全4幕から成るオペラである。ファラオ時代のエジプトエチオピア、2つの国に引裂かれた男女の悲恋を描き、現代でも世界で最も人気の高いオペラのひとつである。また第2幕第2場での「凱旋行進曲」の旋律は単独でも有名である。

この作品はしばしば「スエズ運河の開通(1869年)を記念して作曲された」あるいは「スエズ運河開通祝賀事業の一環としてカイロに建設されたオペラハウス杮落し公演用に作曲された」といわれることがあるが、以下に述べるようにこれらはいずれも正確ではない。エジプトを舞台にしたメジャーなオペラはモーツァルトの『魔笛』以来だが、ほぼ無国籍なファンタジーである『魔笛』にくらべ、国家の攻防がメインに据えられた壮大なご当地オペラになっている。

目次

基本データ

作曲の経緯

ドン・カルロ』の初演(1867年)、『運命の力』の改訂初演(1869年)の後、ヴェルディの次作検討作業はパリ在住のオペラ台本作家であり、オペラ座オペラ=コミック座の支配人でもあったカミーユ・デュ・ロクルとの交渉を中心に展開していた。デュ・ロクルは様々の戯曲・小説をヴェルディに送付していた。

そのうちヴェルディが何がしかの興味を示したことがわかっているのは、ウジェーヌ・スクリーブの『アドリエンヌ・ルクヴルール』(Adrienne Lecouvreur) と、モリエール作『タルチュフ』(Le Tartuffe, ou L'Imposteur) 、それにロペス・デ・アジャラの "El Tanto por Ciento" であった。後ニ者が喜劇であったことは興味深い。ヴェルディがそれまでに作曲したオペラ・ブッファは、第2作『一日だけの王様』(1840年初演)1作のみだったし、オペラ・ブッファというジャンルそのものが19世紀後半のイタリアでは人気薄だったことを考える時、ヴェルディがこの頃何故ブッファを考えていたのかは謎である。人生最後の作品『ファルスタッフ』(1893年初演)でブッファに回帰する萌芽が、その20年以上前からあったのかもしれない。

カイロからの委嘱

このデュ・ロクルの新作交渉とはまったく別個に、ヴェルディには祝典のための作曲依頼があった。依頼元はエジプトの総督イスマーイール・パシャである。1869年11月のスエズ運河開通の祝賀事業の一環として、パシャはカイロにオペラ劇場(「イタリア劇場」とも)を開場したが、その開場式典の祝賀音楽の作曲依頼であり、時期的は1869年8月以前のことである。その時ヴェルディは「自分は普段から、臨時機会用の音楽 (morceaux de circonstance) を書くことには慣れておりません」といって断っている。

結局、1869年11月6日の劇場の杮落としではヴェルディの既作オペラ『リゴレット』がエマヌエーレ・ムツィオのタクトで上演されたが、パシャはその後、祝賀のための小品どころか、エジプトを舞台にした新作オペラの依頼をパリのカミーユ・デュ・ロクルを通じて行ってきたのである。題材としてパシャが用意したのは、考古学者オギュスト・マリエットの著した23ページにわたる「原案」であった。マリエットは1821年生まれのフランス人で、1849年からルーヴル美術館のエジプト考古部に勤務、1851年からエジプトに渡り研究を続け、イスマーイール・パシャの信頼も篤く、「ベイ」(1858年)、更には「パシャ」(1879年)の尊称を与えられた人物だった(このためその名はしばしば「マリエット=ベイ」あるいは「マリエット=パシャ」と表記される)。

依頼がヴェルディのもとに届いたのは1870年の春、スエズ運河も開通し、オペラ劇場も開場した後である。しかしこの経緯が後年になって、『アイーダ』がスエズ運河開通を記念すべく作曲された、といった俗説の流布に寄与することになった。

イスマーイール・パシャはヴェルディの作品を愛していたというより、ヨーロッパの大作曲家による、エジプトを舞台とした荘厳なオペラ作品を自分が統治するカイロのオペラハウスで上演したい、という夢と希望を持っていた。実際、イスマーイール・パシャはデュ・ロクルに「ヴェルディが依頼を断ったら、依頼先はグノーワーグナーに変更してもいい。」という内容の手紙も送っていた。デュ・ロクルがその手紙の内容を伝えたことで、ヴェルディのワーグナーに対するライバル意識が惹起され、それまでブッファを中心に新作題材を検討していた彼はこのマリエット原案による悲劇を真剣に検討することになった。「ワーグナー」の名を出すのはデュ・ロクルの作戦だったかも知れない。

1870年6月にはヴェルディはこの新作の作曲に大枠で合意した。ヴェルディの提示した条件は

  • ヴェルディは作曲料として15万フランス・フランを受領する(これは彼の最近作『ドン・カルロ』の4倍という法外なものであった)
  • 台本はヴェルディが彼自身の支出によって、彼の選んだ作家に作成させること
  • 台本はイタリア語であるべきこと
  • 1871年1月に予定される初演はヴェルディの選んだ指揮者によって行われるべきこと
  • ヴェルディ自身にはカイロに赴き初演を監督する義務はないこと
  • 仮にカイロでの初演が6か月以上遅延した場合、ヴェルディは彼の任意の歌劇場でそれを初演できること
  • 初演以外の全ての上演に関する権利はヴェルディが保持すること

という、彼にとって有利なものであったが、闊達なイスマーイール・パシャはその全てを受諾したのだった。

台本に関与した人々

マリエットの「原案」から『アイーダ』の台本が完成するまでには、以下のように多くの人々の関与が絡み合っている。

  1. エジプト総督イスマーイール・パシャ。デュ・ロクルの言によれば、オギュスト・マリエットに『アイーダ』のアイディアを提供したのは、このパシャ自身であるという。もっともこれは、デュ・ロクルによる一種の「箔付け」の可能性が高い。
  2. エジプト考古学者オギュスト・マリエット。イスマーイール・パシャの下で働く彼が、1870年に『アイーダ』(Aïda) のフランス語による原案を作成した。全23ページにわたるもので、4幕6場よりなる。オペラのストーリー展開の骨格はこの段階でほぼ完成している。またマリエットはその後も、ヴェルディやギスランツォーニに対してエジプト考古学上のアドヴァイスを与え、初演の舞台装置、衣装製作を担当するなどしている。
  3. パリのカミーユ・デュ・ロクル。1870年5月にマリエットの「原案」をヴェルディに送付、また翌6月にはフランス語による「原台本」を著した。「原台本」はデュ・ロクルがヴェルディのサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)の自宅を訪問した際に書かれているため、この段階からヴェルディ自身のアイディアが入っているとも考えられる。例えば、マリエット「原案」第2幕、凱旋の場の前にアムネリスの居室の場面を挿入したのはデュ・ロクルとヴェルディの創意であろう。
  4. ヴェルディ自身。マリエット「原案」前半2幕分をイタリア語に翻訳した。その後も台本作成に関してギスランツォーニに数々の指示を行っている。
  5. ヴェルディの妻ジュゼッピーナ。マリエット「原案」後半の2幕分をイタリア語に翻訳した。彼女はもと高名なオペラ歌手であり、フランス語にも夫以上に堪能であった。
  6. イタリア人台本作家アントニオ・ギスランツォーニ。3、4、5をもとにイタリア語韻文による台本を作成した。1870年7月に台本の最初の部分がヴェルディに送付されている。

1871年、カイロにおける世界初演時には、「台本はギスランツォーニによる」と明記され、マリエットへの言及はない。またその後出版された楽譜、リブレットもほぼこれを踏襲している(例外的にフランスで出版された楽譜等では、マリエットやデュ・ロクルを原台本作家と位置づけている)。

またこれとはまったく別個に、1756年にメタスタージオによって著され、ニコロ・コンフォルティ(1756年初演)、ニコロ・ピッチンニ1757年初演)、ヨハン・アドルフ・ハッセ1758年初演)など多くのオペラ作曲家によって舞台化された、エジプトを舞台としたオペラ台本『ニチェッティ』(Nitteti) こそが本当の原案であり、マリエットあるいはデュ・ロクルはそれを下敷きに『アイーダ』の台本を構築したのではないか、という説も近年では唱えられている。

なお、マリエットの「原案」で "Aïda"トレマ記号「¨」があるのは、そうでなければ「アイーダ」と発音できない、というフランス語の特性によるもので、イタリア国外では今日でもそのように綴る資料・文献も多い。一方、イタリア語では "Aida" と綴れば「アイーダ」と発音できるので、ヴェルディは常にそのように表記し、カイロ初演時の表記もそのようになっている。"Aïda" と "Aida"、2種類の表記の混在はそこから発生した。

作曲の進展

ヴェルディの作曲順はほぼ場面展開順であり、彼とギスランツォーニが唯一後回しにしたのは、第1幕第2場、神殿で祭司らが勝利を祈願する場面だった。音楽効果上、ヴェルディは巫女の声を祭司たちのそれに重ねたいと考えていたが、ファラオ時代の女性が祭祀に加わることが考証的にあり得るだろうか、との疑問をもち、マリエットに問い合わせを行っているのである。このような宗教儀式への女性の参加はなかった、とするのが(少なくとも作曲時の19世紀においては)考古学上の通説だったが、エジプト考古学の第一人者のはずのマリエットは芸術上の効果を学問上の知見に優先させ、デュ・ロクルを通じて「ヴェルディ氏の望まれるだけの数の巫女を儀式に加えて差し支えないと考えます」という返信をしている。こうして無事に(?)巫女の声が祭司たちに唱和できることになった。

1870年11月にはヴェルディの作曲はほぼ完成した。彼はカイロ初演に立ち会う考えがなかったため、通常はリハーサル段階で手を入れることができるオーケストレーションまでを仕上げる必要があったことを勘案しても、着手からわずか5か月(台本の初回受領からは4か月)で総譜まで完成というのは、『アイーダ』のような大規模かつ重厚なオペラの場合、異例のハイペースであり、ヴェルディの意気込みが感じられる。

普仏戦争による遅延、そして初演

上述のように『アイーダ』カイロ初演は当初1871年1月に予定されており、ヴェルディ側の準備は順調だった。しかし、1870年7月に勃発した普仏戦争が予期せぬ混乱をもたらした。カイロ初演のための舞台装置と衣装はすべて、一時帰国したマリエットの監修のもと、パリで製作されていたが、プロイセン軍によって同市はほぼ完全に包囲され、人手不足も加わって作業は大幅に遅延、完成した資材もマリエットもパリ脱出不能の状態となり、スケジュール通りの初演は不可能になった(ヴェルディ自身この危機的状況を、デュ・ロクルが包囲下のパリでしたため、気球に載せて送出した郵便で知った)。

このような事態では上述の契約上、ヴェルディが好みの歌劇場で初演を強行することも可能だったが、彼はイスマーイール・パシャの顔を立てる形で世界初演延期に同意、1871年2月に予定していたミラノスカラ座でのイタリア初演も1年の延期とした。

1871年12月24日、カイロにて11か月遅れで行われた初演は、予想通りの大成功であった。もっとも、エジプトの一種の「国策」として委嘱された同オペラがカイロで失敗するという懸念はあまりなかったかも知れない。その頃ヴェルディは、より正念場と考えられたスカラ座でのイタリア初演に集中する日々を送っていた。

構成

4幕7場

  • 第1幕
  • 第2幕
    • 第1場 テーベの宮殿、アムネリス王女の居室
    • 第2場 テーベの凱旋門
  • 第3幕 ナイル川の岸辺
  • 第4幕
    • 第1場 メンフィス王宮の広間
    • 第2場 メンフィスのウルカヌス(≒プタハ)神殿と地下牢





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