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アイユーブ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/29 05:45 UTC 版)
(アイユーフ朝 から転送)
アイユーブ朝(大アイユーブ朝1169年~1250年、最後の地方政権のハマ・アイユーブ朝は1342年まで存続、الأيوبيون、Ayyubid)は、エジプト、シリア、メソポタミアなどを支配したイスラム系の王朝。王朝名の「アイユーブ」は創始者の父の名に由来する。なお、アイユーブはもともとは旧約聖書ヨブ記の義人ヨブのアラビア語形である。
目次 |
サラーフッディーンの王朝創設と治世
1169年、サラーフッディーン(サラディン)が、ファーティマ朝の軍最高司令官と宰相の地位を兼任し、年内までにエジプトにおける全権を掌握して、アイユーブ朝を創設した。1171年、ファーティマ朝の第14代カリフ・アーディドが死去すると、ファーティマ朝を完全に滅ぼし、名目上はアッバース朝に臣従するという形式のもとにスルタンを称した。このため、アイユーブ朝の成立は1171年説もある。
その後しばらくは内政に専念したが、1174年にかつて自身が仕えていたザンギー朝のスルタン・ヌールッディーンが死去すると、そのもとから独立してシリアに侵攻し、同地を併合してエジプト、シリアに広大な支配圏を築き上げたのである。
1187年、十字軍の休戦協定違反を契機としてサラーフッディーンはエルサレム王国に侵攻し、7月に有名なハッティンの戦いで十字軍に大勝し、10月には約90年ぶりのエルサレム奪回を果たしたのである。このため、1189年からイギリス王・リチャード1世を中心とした第3回十字軍の反攻を受けたサラーフッディーンは、十字軍にアッコンを奪回されるなどの苦戦を強いられたが、十字軍の猛攻によく耐えて1192年、和睦を結ぶにいたった。この和睦により、エルサレムをはじめとする領土のほとんどはアイユーブ朝の支配圏として確立することとなり、十字軍はシリア沿岸にわずかな領土を有するまでに没落してしまい、往時の力を失うこととなったのである。
その後、サラーフッディーンは1193年、ダマスカスにて病死した。
サラーフッディーン死後の混乱
サラーフッディーンの死後、スルタン位は次男のアル・アジーズが継いだ。しかし、サラーフッディーンは17人の息子に分割相続させてしまったため、兄弟内における権力闘争が起きることとなる。アル・アジーズにはこの権力闘争を抑制できる力は無く、1198年に不慮の死を遂げている。
アル=アジーズの死後、王朝の主導権はサラーフッディーンの弟・アル・アーディルが掌握し、サラーフッディーンの長男であるアル・アフダルをはじめとする息子たちの権力闘争を抑えて、1202年にスルタンとして即位した。
- 1 アイユーブ朝の概要
- 2 アル・アーディルとアル・カーミル父子の治世
- 3 参考資料