アイヌの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/07 09:42 UTC 版)
アイヌの歴史(アイヌのれきし)では、アイヌ民族の歴史を解説する。歴史区分についてはアイヌ史の時代区分、本州側の歴史上のアイヌ観については蝦夷も参照のこと。
注釈
- ^ イノシシは北海道に生息しておらず、東北北部から持ち込まれた。イノシシは単なる食用ではなく、本州と同様にイノシシを用いた祭祀が行われていたと考えられている[17]。
- ^ 飼いグマを用いた儀礼は、道内とサハリンからアムール川下流域までというアイヌと交流があった範囲にしか存在しない風習である。その起源については「続縄文文化説」と「オホーツク文化説」があるが[29]、続縄文のクマの頭部彫刻は続縄文文化説を補強する遺物とされている[28]。オホーツク文化説については#オホーツク文化期を参照。
- ^ 『日本書紀』斉明天皇5年(659年)条の高麗画師子麻呂が官からヒグマの毛皮70枚を借りた記述など[35]。
- ^ アワ・ヒエ・ソバ・キビ・コムギ・オオムギなどが確認されている[44]。また鉄製の農具も確認されている[45]。主要な農産物は当初はアワで、9世紀頃からキビが多くなり、10世紀中葉以降にヒエに移行した。関根達人は、アイヌ文化のウムレクハルカムイ(夫婦の食料神・ヒエとアワのこと)のルーツは擦文時代まで遡ることが出来るとしている[46]。
- ^ 石狩低地帯に分布する末期古墳の一種。8世紀前半から9世紀前半までに築造され、東北北部と同じ埋め込み式木棺が特徴。小樽市蘭島遺跡、恵庭市西島松5遺跡、千歳市ユカンボシC15遺跡など[47][48]。
- ^ 例えば、カムイは神に、カムイノミは「のみ」(拝む)に、「オンカミ」(礼拝)は「拝み」に、ヌサ(祭壇)は幣に、シト(供物にする団子)は粢(しとぎ)に通じる[50]。
- ^ 近世アイヌでもアワビは主要な交易品であったが、アワビを主体とする貝塚は擦文時代まで遡る[56]。この他に本州に送られた産品として『御堂関白記』『源氏物語』に「ふるきのかわぎぬ」の名で登場するクロテンの毛皮や[57][58]、後述するオオワシの矢羽根が挙げられる。
- ^ 精神的側面としては、アイヌ文学に記される信仰・世界観ではカムイやシサムが交易相手として描かれている(→イオマンテ)[61]。
- ^ 本州側の史料で、10世紀ごろから道産のオオワシの矢羽根が珍重されたことが分かる[63]。
- ^ 例えば、アイヌ語で麹はカㇺタチだが、上代日本語で麹は「かむたち」である[67]。
- ^ 両者が混同されることからアイヌ文化に替わる時代区分を提案する研究者もいる。例えば瀬川は「ニブタニ時代」に改めることを提案している[1]。詳細はアイヌ史の時代区分を参照。
- ^ クイ。中国の史料にみえるアイヌの呼称で、ニヴフ語でアイヌを意味するkuyiに漢字を充てた語[83]。
- ^ この時期を記した『国朝文類』の果夥(クオフオ)という拠点の地名は、サハリン南端西能登呂岬の白主土城とする説がある[83]。
- ^ 安東氏の出自は明らかではないが、津軽に居住する擦文文化の集団とする説がある[95]。
- ^ 北海動乱については史実性を疑う意見もあったが、様々な傍証によって確実視されるようになっている[104]。
- ^ 例えば十二館のうち原口館とされていた遺跡は、1992年の発掘調査により擦文時代の遺跡と判明している。また今後の調査次第では『新羅之記録』に記されていない新たな館の発見も期待されている[106]。
- ^ 読みをオランカイとし、女真族とする説がある[89]。
- ^ 安藤政季説、蠣崎氏説、アイヌ首長説のほか、宗氏による偽使とする説もある[119]。
- ^ 「宝を与える」とあるが、アイヌ社会には敗者が勝者に宝を差し出す風習があり、これに則れば蠣崎氏は敗者の礼を取っていたことになる[129]。
- ^ 一方で中村は、天文20年からを移行期と位置付け、北海道アイヌが商場知行制の成立した寛永期、樺太アイヌが清朝の辺民に編入された雍正10年(1732年)、千島アイヌがロシア人に貢納を行うようになった明和5年(1768年)、本州アイヌが消滅した宝暦6年(1756年)にそれぞれ近世が始まったとしている[79]。
- ^ 蠣崎慶広は、秀吉に蝦夷交易の利権を安堵してもらうために九戸政実の乱に自主的に参陣するが、この際に慶広・政実双方がアイヌを引き連れていたことが記録されている[137]。
- ^ 例えば家康の黒印状は、交易の方針を示した法度(法律)である。黒印状では和人の商人に対し松前氏を通さない交易が禁じられ、松前氏にアイヌに非分を行う和人の取締りが認められているが、アイヌについては「どこにいっても自由」と付記されており、アイヌは松前以外(大陸・千島列島・サハリン)にも渡航して交易する自由が認められていた[139][140][141]。また黒印状は本領を安堵するものではなく、松前藩は領地を持たない無高大名(もしくは武装商人)で蝦夷地は異域(アイヌの土地)であった[142][143][140]。
- ^ 津軽藩の調査によると、米とサケの交換比率はアイヌ側からみて2割から3割の値上げが行われていた[148]。
- ^ 和人地については、寛永10年(1633年)に幕府巡検使が来島して和人地を西は乙部、東は石崎(函館市)までと定め、それ以外の土地はアイヌの住む蝦夷地と設定された。この和人地は徐々に拡大し、元禄13年(1700年)には西は熊石村の北にあるほろむい村、東は汐首村(函館市)まで及んだ[152][145]。当初はアイヌと和人の往来は可能で、和人を娶るアイヌも居た。しかし天和2年(1682年)の朱印状によって、アイヌの自由な往来は商場に限定されるように定められた[79][153]。
- ^ 幕府直轄の長崎に加え、特定の藩(琉球と薩摩藩・朝鮮と対馬藩・蝦夷地と松前藩)を対外窓口として行われた近世の交易体制を日本型華夷秩序という[149]。
- ^ 清の通貨はサハリンのニヴフ社会でも流通していた事が明らかになっているが、樺太アイヌまで及んでいるかは不明である[79]。
- ^ 松前藩が樺太アイヌの一部が清朝の辺民に組み込まれていることに気が付くのは安永7年(1778年)である[168]。宗谷の商場でナヨロの首長ヨーチテアイノに出会った松前藩士は、彼が幼いころに人質として清に預けられ、戻る際に「楊忠貞」という名を与えられていたことを知るが、特に関心を持たなかった[163][168]。
- ^ 幕府によって整理されたアイヌの借財は貂皮5047枚分で、その代金は136両1分と記録されている[176]。
- ^ 千島アイヌを19世紀後半に調査した鳥居龍蔵は、ロシア正教会を受け入れ、ロシア風の衣装を着て、ロシア名を名乗っているが、言葉・風俗・生業は古来のアイヌ文化を残すと記録している[179]。
- ^ 出島のオランダ商館長アルメナウトは、カムチャツカで反乱を起こしマカオに向かう途中だったベニョフスキーに接触し、その内容を幕府に報告していた[183]。
- ^ 幕領化に抵抗する松前藩は蝦夷地を先祖代々の領地と主張するが、幕府は松前藩は蝦夷地の取次に過ぎないとして、これを一蹴している[132]。
- ^ 新たに1国を興すつもりで費用を度外視して開発を進めることを指す[185]。
- ^ 南樺太には本島とは異なる施策が行われ、彼らが日本国籍を取得したのは1933年であった。太平洋戦争終戦と共に約1000人のアイヌは北海道に引き揚げている[201]。
- ^ 移住した当時の千島アイヌはロシア風の名前を持っていたが、1910年(明治43年)に日本式に改姓させられている[202]。
- ^ 官有地化されたアイヌの土地の面積について、『開拓使事業報告』(1979年)は22万4760坪と記載している[206]。
- ^ こうした施策はお雇い外国人ホーレス・ケプロンの進言により行われた。地所規則第7条には「山林川沢従来土人等漁猟伐木仕来シ地ト雖、更ニ区分相立持主或ハ村請ニ改メ」とありこれを裏付けとして無主の地とされた[205]。
出典
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