三省堂 大辞林 |
わだ-つなしろう ―つなしらう 【和田維四郎】
地図測量人名事典 |
和田維四郎(わだつなしろう(1856-1920)
福井県小浜に生まれ、初代地質調査所長、鉱山局長、官営製鉄所長官。
若狭国小浜藩から大学南校に入学、明治6年には設立された開成学校のドイツ部においてドイツの鉱山技師シェンク(Karl Schenk)の指導で近代的な鉱物学を学んだ。その後、開成学校助教を経て東京大学助教授・教授となった。
明治11年内務省地理局地質課長として土性調査を実施し、「1/100,000土性図」作成するという調査計画を立案した。 その後、改称した地質調査所の初代所長となる(明治14年)。地質調査所では、地質及び土性調査に必要な地形図を調製するため、陸地測量部の三角点、海軍水路部の経緯度測点を使用し測量を行い1/50,000原図を作成、これを集成して1/200,000地形図を完成させることとした。また、1/100,000原図を集成して、1/200,000地形図も完成した。その後、これらをベースに「1/100,000土性図」などの作成を始めた。
「地質調査所年報」によると,明治18年(1885)から明治36年の18年間に,農商務省地質調査所から合計37の土性図とそれらの説明書が刊行されている。
また、明治15年(1882)に来日し、明治27年(1894) まで、農商務省地質調査所の雇員、駒場農学校の農学科教師として滞在した。ドイツ人マックス・フェスカらが明治15年(1882)が最初に作製した土性図の調査員誌には,次のようなことが書かれている。「すなわち,土性図の地形の基線は,わが国最初の実測地理学者である伊能忠敬(1745-1818)の実測図によった。その他は自分たちで実測した。岩石の区分は,わが国の鉱物学の先駆者である和田維四郎の地質概測によった」と。 明治21年には、前出の三角点や経緯度測点を使用し実測した成果とその他の地形図を利用して、多円錐図法による「1/1,600,000日本全図」を作製したが、これは忠敬以降、最初の実測日本全図となるものである。和田は、地質調査所長としてこれらの事業を進めた。
和田が生涯収集した鉱物標本は、日本最大の鉱物標本コレクションである。晩年になると古書収集に没頭し、書誌学者としても大家をなした。
若狭国小浜藩から大学南校に入学、明治6年には設立された開成学校のドイツ部においてドイツの鉱山技師シェンク(Karl Schenk)の指導で近代的な鉱物学を学んだ。その後、開成学校助教を経て東京大学助教授・教授となった。
明治11年内務省地理局地質課長として土性調査を実施し、「1/100,000土性図」作成するという調査計画を立案した。 その後、改称した地質調査所の初代所長となる(明治14年)。地質調査所では、地質及び土性調査に必要な地形図を調製するため、陸地測量部の三角点、海軍水路部の経緯度測点を使用し測量を行い1/50,000原図を作成、これを集成して1/200,000地形図を完成させることとした。また、1/100,000原図を集成して、1/200,000地形図も完成した。その後、これらをベースに「1/100,000土性図」などの作成を始めた。
「地質調査所年報」によると,明治18年(1885)から明治36年の18年間に,農商務省地質調査所から合計37の土性図とそれらの説明書が刊行されている。
また、明治15年(1882)に来日し、明治27年(1894) まで、農商務省地質調査所の雇員、駒場農学校の農学科教師として滞在した。ドイツ人マックス・フェスカらが明治15年(1882)が最初に作製した土性図の調査員誌には,次のようなことが書かれている。「すなわち,土性図の地形の基線は,わが国最初の実測地理学者である伊能忠敬(1745-1818)の実測図によった。その他は自分たちで実測した。岩石の区分は,わが国の鉱物学の先駆者である和田維四郎の地質概測によった」と。 明治21年には、前出の三角点や経緯度測点を使用し実測した成果とその他の地形図を利用して、多円錐図法による「1/1,600,000日本全図」を作製したが、これは忠敬以降、最初の実測日本全図となるものである。和田は、地質調査所長としてこれらの事業を進めた。
和田が生涯収集した鉱物標本は、日本最大の鉱物標本コレクションである。晩年になると古書収集に没頭し、書誌学者としても大家をなした。
わだつなしろうのページへのリンク