三省堂 大辞林 |
よしだ-とうご 【吉田東伍】
美術人名辞典 |
吉田東伍
読み方:よしだ とうご
明治時代の歴史地理学者。旗野木七の三男。吉田家の嗣。小学校教員。北海道庁書記をしながら独学で日本史を学び田口卯吉主宰の「史海」へ投稿し、落後生の匿名で読売新聞に史論を掲載。また人文地理学の立場で『大日本地名辞書』を編纂して文学博士となる。従来の観阿弥、世阿弥は謡曲の作曲者で詞章の作者ではないとの説をくつがえした。著書に『徳川政教考』『日本歴史地理の研究』等がある。大正7年(1918)歿、55才。
明治時代の歴史地理学者。旗野木七の三男。吉田家の嗣。小学校教員。北海道庁書記をしながら独学で日本史を学び田口卯吉主宰の「史海」へ投稿し、落後生の匿名で読売新聞に史論を掲載。また人文地理学の立場で『大日本地名辞書』を編纂して文学博士となる。従来の観阿弥、世阿弥は謡曲の作曲者で詞章の作者ではないとの説をくつがえした。著書に『徳川政教考』『日本歴史地理の研究』等がある。大正7年(1918)歿、55才。
地図測量人名事典 |
吉田東伍(よしだとうご 1864-1918)
新潟生まれ、歴史学者、「大日本地名辞書」の著者。
越後国保田町(現在の新潟県安田町)の旗野家の三男として生まれ、小学校を卒業、続いて新潟英語学校で学び、明治16年(1883)年に教員試験に合格し教員をしていたが、その後現新津市の吉田家の養子となる。
子供の頃から読書好きで、父母から「人間は何よりも衣食が先だ」と注意されたほどであったといわれ、17歳の頃にはすでに地理や歴史の研究を始め、「安田志料」と題する郷土史の執筆を始めていた。「落後生」などの名で投稿を重ね、それが認められ、読売新聞に「徳川政教考」を連載した。日清戦争のときには、従軍して「日韓古史断」を執筆してその地位を固めた。 明治28年(1895)日本には統一した地誌がないことに着目し、生涯の仕事として日本の地名辞書の編纂を決意した。それから13年間、粉骨砕身の研究・執筆を続け明治40年(1907)「大日本地名辞書」を完成した。同辞書の完成祝賀会は、上野精養軒で開かれたが、大隈重信、前島蜜など名士・文化人 150名が参加する盛大なもので、参会者は会場に積み上げられた原稿用紙の山に驚愕したという。
同辞書は、文字数 1,200万字の巨編で、ほぼ一世紀を経た現在も版を重ねている。その他に「日本読史地図」や、今風に言えば逆読み日本史にあたる「倒叙日本史」さらには、「海の歴史」、「利根川治水論考」、「日本歴史地理之研究」など今日的問題を提起した著作を数多く残している。生涯彼が執筆した書籍・論文は、非常に多く31年間の執筆活動の間、一ヶ月に1編の割合で発表していた。保田町の中心部にある生家近くの「吉田東伍記念博物館」には、彼の鉛筆書きの地図や「想像安田町古城祉按図」、「町並古図写し」といった興味深い地図類が残されている。
越後国保田町(現在の新潟県安田町)の旗野家の三男として生まれ、小学校を卒業、続いて新潟英語学校で学び、明治16年(1883)年に教員試験に合格し教員をしていたが、その後現新津市の吉田家の養子となる。
子供の頃から読書好きで、父母から「人間は何よりも衣食が先だ」と注意されたほどであったといわれ、17歳の頃にはすでに地理や歴史の研究を始め、「安田志料」と題する郷土史の執筆を始めていた。「落後生」などの名で投稿を重ね、それが認められ、読売新聞に「徳川政教考」を連載した。日清戦争のときには、従軍して「日韓古史断」を執筆してその地位を固めた。 明治28年(1895)日本には統一した地誌がないことに着目し、生涯の仕事として日本の地名辞書の編纂を決意した。それから13年間、粉骨砕身の研究・執筆を続け明治40年(1907)「大日本地名辞書」を完成した。同辞書の完成祝賀会は、上野精養軒で開かれたが、大隈重信、前島蜜など名士・文化人 150名が参加する盛大なもので、参会者は会場に積み上げられた原稿用紙の山に驚愕したという。
同辞書は、文字数 1,200万字の巨編で、ほぼ一世紀を経た現在も版を重ねている。その他に「日本読史地図」や、今風に言えば逆読み日本史にあたる「倒叙日本史」さらには、「海の歴史」、「利根川治水論考」、「日本歴史地理之研究」など今日的問題を提起した著作を数多く残している。生涯彼が執筆した書籍・論文は、非常に多く31年間の執筆活動の間、一ヶ月に1編の割合で発表していた。保田町の中心部にある生家近くの「吉田東伍記念博物館」には、彼の鉛筆書きの地図や「想像安田町古城祉按図」、「町並古図写し」といった興味深い地図類が残されている。
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