穆佐城跡とは? わかりやすく解説

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穆佐城跡

名称: 穆佐城跡
ふりがな むかさじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 宮崎県
市区町村 宮崎市
管理団体
指定年月日 2002.03.19(平成14.03.19)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 穆佐城跡は,宮崎県県南中央部にあり,東流する大淀川右岸標高60メートルの低丘陵上に立地する平山城であり,佐土原から都城経て薩摩へ向かう薩摩街道上の要衝位置している。
 穆佐城跡は,南北朝時代争乱かかわった城跡であり,戦国時代には伊東氏島津氏争奪繰り返した城跡である。
 建武3年(1336),足利尊氏一族畠山直顕日向国派遣しており,『日向記』によると,畠山氏穆佐城本拠とし南朝方の制圧努めたが,やがて南朝方の肥後菊池氏穆佐城攻められ日向国離れたという。その後穆佐城を含む川南大淀川以南地域)は島津氏支配属していたが,応永19年(1412)に伊東氏侵攻し穆佐城制圧した。これに対し,同31年島津氏川南の地に進出したが,文安2年(1445)に伊東氏奪還し以後130年穆佐城伊東氏支配下にあった
 伊東氏島津氏戦いは,飫肥庄内真幸地方拡大したが,元亀3年(1572)の木崎原の戦い伊東氏大敗し天正5年(1577)伊東氏大友氏頼って豊後国退去し日向国島津氏支配するところとなった。翌天正6年大友氏日向国への南下企てたが,耳川の合戦島津氏敗れ以後島津氏肥後肥前筑後豊後へと勢力拡大した。これに対し豊臣秀吉は,天正15年大友氏要請応じ大軍派遣して島津氏下し九州制圧したその結果伊東氏飫肥島津氏佐土原諸県郡与えられ穆佐城島津氏支配となった江戸時代元和一国一城令以後は,穆佐城薩摩藩外城一つとなった考えられる
 穆佐城縄張りは,4つの郭群から構成されており,各郭群は大規模な堀切によって区画され,各郭は堅固な土塁有している。城内の最高所位置する郭群は,特に規模大き堀切土塁によって守られていることから主郭部考えられる平成2年度~6年度に実施され高岡町教育委員会による発掘調査によって,主郭部等から柱穴1416世紀とみられる陶磁器等が検出されている。
 穆佐城跡は,自然地形最大限利用しシラス台地築かれ南九州における中世城館遺跡の特徴をよく示している。南北朝時代から戦国時代にかけての南九州争乱から統一に向かう歴史において重要な役割果たした城跡であり,かつ郭群,土塁堀切等の遺構きわめて良好に遺存している。よって史跡指定し保護図ろうとするものである
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