三省堂 大辞林 |
まみや-りんぞう ―りんざう 【間宮林蔵】
(1775-1844) 江戸後期の探検家。諱(いみな)は倫宗(ともむね)。常陸(ひたち)の生まれ。幕府の蝦夷(えぞ)地御用雇となり蝦夷地に勤務、伊能忠敬に測量を学ぶ。千島・西蝦夷・樺太を探検。間宮海峡を発見し、樺太(サハリン)が島であることを実証。シーボルト事件の告発者といわれる。
地図測量人名事典 |
間宮林蔵(まみやりんぞう 1780-1844)
常陸の人、探検家、間宮海峡発見者。
間宮海峡を発見したことで有名な間宮林蔵は、常陸国筑波郡上平柳の農家の子として生まれ、15、6歳まで当地で過ごしたという。
9歳の時には、村の専称寺にある寺子屋に通い、読み、書き、そろばんを学んだ。
15歳ごろまで上平柳で過ごした林蔵少年は、自宅近くを流れる小貝川の堰止め、堰切り工事などに興味を示し、終日堰の傍らに立ち、熱心に工事を見守っていたが、その内、すすんで雑用を手伝ったといわれる。当時、工事役人であった村上島之允に会い、下僕として働くようになったことが林蔵の運命を決めたともいえる。 師の村上は、伊勢の人で、地理・測量に優れ、書画も巧みであり、普請役として林蔵を供に関東各地をめぐり、蝦夷地の調査・測量にも従事した。
これが、林蔵が蝦夷地探検のほか、日本各地の調査を行うきっかけとなった。
間宮林蔵が樺太白主(しらぬし)を目指したのは、林蔵29歳、松田伝十郎40歳の文化5年(1808)のことである。4月13日に宗谷を出航し樺太白主に着き、二手に分かれて調査し、どこかで落ち合うことで「樺太」が島であることを確認しようとした。伝十郎は西海岸を、林蔵は東海岸を小船で北上したが、林蔵はシレトコ岬で北上を断念し西海岸へ出て松田と再会した。松田は、この時の現地の状況から島であることを確信したという。
納得のいかない林蔵は、翌文化 6年(1809)に再度渡樺し、沿海州までおもむき「樺太」が島であることを発見・確認した。
彼の最大の功績は、この間宮海峡を発見したことである。同じように、蝦夷地西海岸の測量と樺太に興味を持っていたロシアの水路学者クルーゼンシュテルンと、彼の功績を広く世界の紹介したシーボルトは、林蔵の間宮海峡の発見とその測量結果について高い評価を与えている。
地図作成に関しては、樺太の地図作成は勿論、蝦夷地の測量を実施し、この成果を利用して忠敬の「大日本沿海輿地全図」が作成されている。 1828年シーボルト事件が起きた、事件の端緒は林蔵に発したといわれているが、彼に何らやましいことはなく、真摯に、公明に対処したにすぎない。しかし、そのために一部の人に敬遠され、その後は隠密として日本各地を巡る、淋しい晩年を送った。
後にシーボルトは、林蔵が日本政府からの取り調べのきっかけを作った人物であることを知っていたにも関わらず、「樺太」が島であり、東韃靼との間に海峡があることを発見した地理学上の偉大な功績をあげた人として賞賛しているという。勿論、地図にも「間宮(1808)瀬戸」と記入した。
高橋景保の獄死の後、林蔵は親友に次のように語ったという。「我死せば日頃秘蔵せる地図も洋人の為に齊(もた)らし去らる恐れあり。臨終の時にはこれを焚き棄つべし」と。天保15年病死の後、幕府は林蔵が公儀隠密であったことから彼の書物入れ、柳行李、絵図面入れなどを公納したが、その所在は今もって不明であるという。
間宮海峡を発見したことで有名な間宮林蔵は、常陸国筑波郡上平柳の農家の子として生まれ、15、6歳まで当地で過ごしたという。
9歳の時には、村の専称寺にある寺子屋に通い、読み、書き、そろばんを学んだ。
15歳ごろまで上平柳で過ごした林蔵少年は、自宅近くを流れる小貝川の堰止め、堰切り工事などに興味を示し、終日堰の傍らに立ち、熱心に工事を見守っていたが、その内、すすんで雑用を手伝ったといわれる。当時、工事役人であった村上島之允に会い、下僕として働くようになったことが林蔵の運命を決めたともいえる。 師の村上は、伊勢の人で、地理・測量に優れ、書画も巧みであり、普請役として林蔵を供に関東各地をめぐり、蝦夷地の調査・測量にも従事した。
これが、林蔵が蝦夷地探検のほか、日本各地の調査を行うきっかけとなった。
間宮林蔵が樺太白主(しらぬし)を目指したのは、林蔵29歳、松田伝十郎40歳の文化5年(1808)のことである。4月13日に宗谷を出航し樺太白主に着き、二手に分かれて調査し、どこかで落ち合うことで「樺太」が島であることを確認しようとした。伝十郎は西海岸を、林蔵は東海岸を小船で北上したが、林蔵はシレトコ岬で北上を断念し西海岸へ出て松田と再会した。松田は、この時の現地の状況から島であることを確信したという。
納得のいかない林蔵は、翌文化 6年(1809)に再度渡樺し、沿海州までおもむき「樺太」が島であることを発見・確認した。
彼の最大の功績は、この間宮海峡を発見したことである。同じように、蝦夷地西海岸の測量と樺太に興味を持っていたロシアの水路学者クルーゼンシュテルンと、彼の功績を広く世界の紹介したシーボルトは、林蔵の間宮海峡の発見とその測量結果について高い評価を与えている。
地図作成に関しては、樺太の地図作成は勿論、蝦夷地の測量を実施し、この成果を利用して忠敬の「大日本沿海輿地全図」が作成されている。 1828年シーボルト事件が起きた、事件の端緒は林蔵に発したといわれているが、彼に何らやましいことはなく、真摯に、公明に対処したにすぎない。しかし、そのために一部の人に敬遠され、その後は隠密として日本各地を巡る、淋しい晩年を送った。
後にシーボルトは、林蔵が日本政府からの取り調べのきっかけを作った人物であることを知っていたにも関わらず、「樺太」が島であり、東韃靼との間に海峡があることを発見した地理学上の偉大な功績をあげた人として賞賛しているという。勿論、地図にも「間宮(1808)瀬戸」と記入した。
高橋景保の獄死の後、林蔵は親友に次のように語ったという。「我死せば日頃秘蔵せる地図も洋人の為に齊(もた)らし去らる恐れあり。臨終の時にはこれを焚き棄つべし」と。天保15年病死の後、幕府は林蔵が公儀隠密であったことから彼の書物入れ、柳行李、絵図面入れなどを公納したが、その所在は今もって不明であるという。
江戸人物事典 |
間宮 林蔵 (まみや りんぞう)
| 1775〜1844 (安永4年〜弘化元年) |
|
【探検家】 樺太を探検、「間宮海峡」を発見した。 |
| 常陸国出身。1790年江戸に出て地理学を学ぶ。99年に蝦夷地に初めて渡り、翌年箱館で伊能忠敬から測量術を学んだ。1808年に樺太に渡り、ロシアの半島と思われていた樺太が島であることを確認した。シーボルト事件の密告者と言われ人望を失ったのちは、幕府隠密として長崎に下った。そのシーボルトは、樺太島と中国大陸間の海峡を「間宮海峡」と名づけ、世界に紹介した。日本人の名がついた唯一の地名である。 |
年(和暦) |
||
| ●1783年 (天明3年) | ■浅間山噴火 | 8才 |
| ●1789年 (寛政元年) | ■棄捐令 | 14才 |
| ●1790年 (寛政2年) | ■石川島に人足寄場を設置 | 15才 |
| ●1791年 (寛政3年) | ■江戸市中銭湯の男女混浴を禁止 | 16才 |
| ●1797年 (寛政9年) | ■湯島聖堂を昌平坂学問所と改称 | 22才 |
| ●1803年 (享和3年) | ■江戸開府200年 | 28才 |
| ●1806年 (文化3年) | ■芝の大火 | 31才 |
| ●1808年 (文化5年) | ■フェートン号事件 | 33才 |
| ●1825年 (文政8年) | ■異国船打払令 | 50才 |
| ●1828年 (文政11年) | ■シーボルト事件 | 53才 |
| ●1829年 (文政12年) | ■江戸大火 | 54才 |
| ●1830年 (天保元年) | ■伊勢御蔭参り大流行 | 55才 |
| ●1837年 (天保8年) | ■大塩平八郎の乱 | 62才 |
| ●1839年 (天保10年) | ■蛮社の獄 | 64才 |
人物名 |
年齢差 |
|
| ・佐藤 信淵 | 1769年〜1850年 (明和6年〜嘉永3年) | +6 |
| ・近藤 重蔵 | 1771年〜1829年 (明和8年〜文政12年) | +4 |
| ・徳川 家斉 | 1773年〜1841年 (安永2年〜天保12年) | +2 |
| ・式亭 三馬 | 1776年〜1822年 (安永5年〜文政5年) | -1 |
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