三省堂 大辞林 |
ウィキペディア |
朴正煕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/29 04:52 UTC 版)
(ぼくせいき から転送)
朴 正煕(パク・チョンヒ、박정희、1917年11月14日(時憲暦9月30日) - 1979年10月26日)は、大韓民国の軍人、政治家。第5 - 9代大統領(在任:1963年 - 1979年)を務め、軍事独裁・権威主義体制を築いた。本貫は、高靈朴氏。号は「中樹」(チュンス、중수)。
日本語読みは「ぼく・せいき」。日本名は高木正雄(たかぎ まさお、 - 1945年)。日本では1984年の全斗煥大統領訪日を契機に韓国人人名の現地読み化が行われるようになったが、昔通りの漢字読みも一般的である。陸英修は妻、セヌリ党非常対策委員長の朴槿恵は長女、EGテック現会長の朴志晩は長男。
なお、出生日を1917年9月30日とする文献等があるが、これは時憲暦での表記であり、実際にはグレゴリオ暦に直すと11月14日である。
|
||||||||||||||
- ^ 今日の歴史(3月24日) 聯合ニュース 2009/03/24 閲覧
- ^ 農村部貧困家庭の末子であったことは、朴正煕のメンタリティーを考えるうえで重要な要素である。
- ^ クーデターによって軍の存在が政治勢力として初めて認識された。軍を政治勢力として捉えるならば、韓国軍は当時において最大であるだけではなく朝鮮の歴史において最大の政治勢力だったと言える。韓国軍はクーデター時に約60万人を擁していた。そのうち53万人が陸軍である。これに比して、韓国併合時に日本によって解散させられた朝鮮軍は6000人でしかなかった。このことは長い李氏朝鮮の歴史において軍備が縮小される一方だったこととも関係している。
- ^ 陸軍士官学校第8期生はそれまでの士官と性格を異にしている。韓国の陸士第1期生から第7期生までは旧日本軍(朝鮮軍)の勤務者と、即席で訓練されて士官になった者たちで編成されていた。これに対して第8期生は1年間の訓練を受けている点、第1期生から第7期生を合わせた数に近い1800人を擁していたという点などで特異な存在だった。陸士第8期生は朝鮮戦争において韓国軍の主要な役割を担い、その後も韓国現代史において大きな影響力を持っていた。
- ^ 2007年10月、韓国政府は、1973年朴正煕政権の方針に反発して日本で民主化運動を推し進めていた金大中が日本で拉致された、所謂金大中事件に関して、韓国中央情報部 (KCIA) の関与があり、同時にそれを統括・指揮していた朴正煕から暗黙の了解を得て行っていたとする公式発表を行った。
- ^ 「学園浸透スパイ団事件」はソウルに留学していた在日韓国人・徐勝と徐俊植の兄弟が首謀者とされたことや、徐勝が顔から半身に火傷を負った姿で法廷に現れたことなどから、日本で騒がれた。特に火傷は拷問によるものだと信じられた(のちに火傷を負ったのは拷問中に苦痛に耐え切れず自殺を図ったためと判明)。日本では徐兄弟の救援運動が展開され、徐勝・徐俊植『獄中からの手紙』(岩波新書 ISBN 4-00-420163-2)はベストセラーになった。また、徐勝は実際に北朝鮮の工作船で同国に密かに入国、実際に工作員として教育を受けていたことが現在では明らかになっている。
- ^ クーデター時の朴正煕は重工業化と輸出によるテイクオフを構想してはいなかったと言われている。輸出型工業化を図るという経済政策を採用したのが政権奪取後であることも官僚的権威主義体制モデルがしばしば適用される理由の一つである。
- ^ 他の19人は以下のとおり。昭和天皇、ホー・チ・ミン、ポル・ポト、三宅一生、井上大佑、ラビンドラナート・タゴール、孫文、マハトマ・ガンディー、スカルノ、毛沢東、リー・クアンユー、鄧小平、コラソン・アキノ、豊田英二、ラーマ5世、モンコンブ・スワミナサン、黒澤明、ダライ・ラマ14世、盛田昭夫
- ^ 池東旭『韓国大統領列伝 権力者の栄華と転落』中公新書、120頁
- ^ “朴正煕元大統領、その評価は正当か”. サーチナ. (2009年10月27日) 2011年2月9日閲覧。
- ^ 「最高の大統領」は朴正煕元大統領:2009年10月22日付中央日報
- ^ 『親日派のための弁明』金完燮(草思社)
- ^ 1999年5月256号ハンギョレ21
- ^ 黄文雄 (評論家)『韓国は日本人がつくった』
- ^ 朴正煕大統領へのわいろ「さあ、この100万ドルはもう私のお金です。早速このお金分の銃を持って来るように!」 現代コリア 2009.5.18