三省堂 大辞林 |
ほうじょう-うじなが ほうでううぢなが 【北条氏長】
美術人名辞典 |
北条氏長
読み方:ほうじょう うじなが
武将。北条流兵法の祖。初め氏永、安房守と称し氏繁の孫。将軍秀忠に仕えて町奉行を経て大監察となり従五位下に叙せらる。『雄鑑抄』・『士鑑要法』『兵法問答』等の著書がある。寛文10年(1670)歿、62才。
武将。北条流兵法の祖。初め氏永、安房守と称し氏繁の孫。将軍秀忠に仕えて町奉行を経て大監察となり従五位下に叙せらる。『雄鑑抄』・『士鑑要法』『兵法問答』等の著書がある。寛文10年(1670)歿、62才。
地図測量人名事典 |
北条氏長(ほうじょううじなが 1609-1670)
江戸の人、江戸初期の幕府旗本、軍学者、「正保日本図」を作成。
北条氏長は、江戸に生まれ、 4歳の時に父を失ったが、祖母が北条氏の全盛を築いた氏康の女という血筋もあってか、 8歳で徳川家康に御目見、次いで秀忠に拝謁、17歳で小姓組に召し出され、御徒頭、鉄砲頭を経て、47歳にして(明暦元年1655)大目付に進む出世コースを歩んだ。
13歳の頃から軍学を甲州流軍学者小幡勘兵衛に学び、その継承者となって北条流と称し、多数の軍学書を残している。 氏長と測量・地図の関わりは、慶安3年(1650) 8月6日江戸郊外牟礼野(現三鷹市牟礼)で行われた蘭人ユリアンの臼砲射撃による攻城法の伝習を受けたことに始まり、このとき併せて測量術を学んだのではと推測されている。
正保元年(1644)幕府は諸国に命じて、国絵図を作成し提出させた。この時の国絵図の縮尺は六寸一里(21,600分の1)、以後作成される国絵図はこの大きさに統一された。氏長は、この国絵図から日本全図を編纂する仕事にあたり(慶安4年<1651>)、43万2000分の1の「正保日本図」を完成させ、幕府に献上した。
また、明暦 3年の江戸大火の後、幕府は氏長に復興のために江戸実測図の作成と区画整理を命じた。その際彼は、西洋流の測量術に熟達した金沢清左衛門を登用し事業にあたった。その成果として、「寛文江戸図」が出版された。これが以後の各種の江戸市街図作成と市街図の普及に大きな影響を与えたといわれる。この火災に際して「正保日本図」も焼失したのか、寛文 9年(1669)にも氏長の手による日本全図が編纂された。 慶長(1605)・正保(1644)・元禄(1697)・天保(1831)には、幕府の命により、国々から収納された国絵図に基づく全国図の作成が行われ上程された。さらに、寛永10年(1624)に巡見使国廻りにより上程された国絵図によるものを合わせると計5回全国図作成事業が行われた。
この内、元禄期に作成した日本全図は不満の残るものであったため、享保4年(1719)氏長の実子北条氏如と建部賢弘に命じて、元禄図を再編集して日本全図を作成した。この時には、見当山と呼ばれる目標となる山頂などを観測し、方位角を測定する遠望術や交会法が実施されたといわれる。天保のそれは、伊能忠敬の実測図が完成した後なので、国絵図からの編集は行われなかった。
北条氏長は、江戸に生まれ、 4歳の時に父を失ったが、祖母が北条氏の全盛を築いた氏康の女という血筋もあってか、 8歳で徳川家康に御目見、次いで秀忠に拝謁、17歳で小姓組に召し出され、御徒頭、鉄砲頭を経て、47歳にして(明暦元年1655)大目付に進む出世コースを歩んだ。
13歳の頃から軍学を甲州流軍学者小幡勘兵衛に学び、その継承者となって北条流と称し、多数の軍学書を残している。 氏長と測量・地図の関わりは、慶安3年(1650) 8月6日江戸郊外牟礼野(現三鷹市牟礼)で行われた蘭人ユリアンの臼砲射撃による攻城法の伝習を受けたことに始まり、このとき併せて測量術を学んだのではと推測されている。
正保元年(1644)幕府は諸国に命じて、国絵図を作成し提出させた。この時の国絵図の縮尺は六寸一里(21,600分の1)、以後作成される国絵図はこの大きさに統一された。氏長は、この国絵図から日本全図を編纂する仕事にあたり(慶安4年<1651>)、43万2000分の1の「正保日本図」を完成させ、幕府に献上した。
また、明暦 3年の江戸大火の後、幕府は氏長に復興のために江戸実測図の作成と区画整理を命じた。その際彼は、西洋流の測量術に熟達した金沢清左衛門を登用し事業にあたった。その成果として、「寛文江戸図」が出版された。これが以後の各種の江戸市街図作成と市街図の普及に大きな影響を与えたといわれる。この火災に際して「正保日本図」も焼失したのか、寛文 9年(1669)にも氏長の手による日本全図が編纂された。 慶長(1605)・正保(1644)・元禄(1697)・天保(1831)には、幕府の命により、国々から収納された国絵図に基づく全国図の作成が行われ上程された。さらに、寛永10年(1624)に巡見使国廻りにより上程された国絵図によるものを合わせると計5回全国図作成事業が行われた。
この内、元禄期に作成した日本全図は不満の残るものであったため、享保4年(1719)氏長の実子北条氏如と建部賢弘に命じて、元禄図を再編集して日本全図を作成した。この時には、見当山と呼ばれる目標となる山頂などを観測し、方位角を測定する遠望術や交会法が実施されたといわれる。天保のそれは、伊能忠敬の実測図が完成した後なので、国絵図からの編集は行われなかった。
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