はぎおうかんとは? わかりやすく解説

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萩往還

名称: 萩往還
ふりがな はぎおうかん
種別 史跡
種別2:
都道府県 山口県
市区町村 山口市萩市防府市
管理団体
指定年月日 1989.09.22(平成1.09.22)
指定基準 史6
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 萩往還は慶長9年(1607)萩城築城後その城下三田尻防府)をほぼ直線で結ぶ参勤交代道として開かれた陰陽連絡道で、全長およそ53キロである。昭和56年以降萩市旭村山口市防府市の四市町村歴史の道整備事業実施してきた古道である。
 萩城々下[[唐〓(*1)]からひ]の札場出発した道は[[悴坂]かせがさか]を経て[[明木]あきらぎ]に向かう。途中一里塚刑場跡を通過するが、涙安政6年(1859)護送される吉田松陰
 かへらじと思いさだめし旅なればひとしほぬるる涙かな
詠んだ場所といい、悴坂一里塚は唐〓(*1)札場から一里に当たる。刑場跡は宝暦9年(1759)藩医栗山孝庵が女屍解剖行ったところであり、悴坂の峠には駕籠建場復原されている。[[明木]あきらぎ]から[[佐々並]ささなみ]へは1升谷経て[[釿切]ちようなぎり]を越え、さらに[[千持]せんもち]だおを越える。従来升谷には部分的な石畳存在知られていたが、今次事業により土中埋もれていた石畳総延長250メートルわたって連続して検出された。
佐々並から板堂峠を経て山口に向かうが、途中上長瀬一里塚(唐〓(*1)札場より5里)、逆修石がある。逆修石は『防長地下上申』や『防長風土注進案によれば一の坂銀山大内時代より操業)に関わる逆修施行の場であったといい、銀山活動もあって往来がさかんであったことをしのばせる。板堂峠は防長2国の国境にあたり文化5年(1808)建立国境の碑がある。
 板堂峠を下った所には一の坂一里塚(唐〓(*1)札場より6里)と六間茶屋跡がある。一の坂一里塚崩壊著しかったので復旧し、六間茶屋には便益施設復原修景的に設けられている。
 山口からは〓(*2)山峠を経て宮市にむかい三田尻に至る。宮市には本陣[[兄部]こうべ]家の建物が残る。兄部家元応元年(1319)周防国合物売商人等長職に補されたという伝えをもつ古い家で、『防長風土注進案』は寛永19年(1642)より「御大名様方御本陣」と記している。
 三田尻には御茶屋御船倉燈台が残る。三田尻御茶屋承応3年(1654)2代藩主毛利綱広建設し藩主参勤交代、封内巡検、公式賓客旅館にあてた施設で、安永5年(1776)7代重就により、また嘉永4年(1851)13代敬親により改修されており、文久3年(1863)には三条実美ら7卿の宿舎となっている。
 また御船倉藩主御座船下関船、早船大小艦船囲った場所であり、住吉神社に残る石造燈台文久3年(1863)に建立されたもので、高さ7メートルに及び海上交通安全に寄与してきたものである
 萩往還は参勤交代道として、あるいは近世民衆交通路として、さらには維新志士たちの交通路として重要な役割をはたしつづけてきた古道である。今回歴史の道整備事業終了した箇所中心として古道およそ9・2キロ茶屋本陣一里塚船倉燈台等の関連する交通遺跡について史跡の指定行い、その保存図ろうとするものである
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  萩反射炉  萩城城下町  萩城跡  萩往還  萩藩主毛利家墓所  葉山尻支石墓群  葛原古墳



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