飛び杼
読み方:とびひ
上糸と下糸を入れ替えて、また杼を投げ込んで反対側によこ糸を渡すという作業を繰り返すことで布は織られていくが、これはとても時間の掛かる作業であった。しかも一人では、両手の届く幅の布しか織ることができない。一方飛び杼はローラーが付いている装置で、紐を引くと杼が飛び出し、さらにもう一度紐を引けば杼がもとに戻ってくるという仕組みだ。ジョン・ケイ自身は飛び杼を「車輪付き下糸入れ(wheeled shuttle)」と名付けた。
しかし人々には杼がまるで飛んでいるかのように見え、それが由来で「飛び杼」と名付けられたと言われている。飛び杼のおかげで織り手は杼を投げ込む必要がなくなり、織りに掛かる時間が大幅に短縮された。しかも飛び杼の登場以前に必要だった杼を受け取る助手がいなくても、幅のある織機を織り手のみで扱えるようにもなったのだ。幅のある布も織れるようになった。飛び杼は誰でもほぼ同じ品質で布を織ることも可能にし、織布工の生産効率は三倍になったとも言われた。
#「飛び杼」が普及するまで
誰もが同じ品質の布を織れるというのは同時に、熟練工が不要となるということでもある。そのため、失業を恐れた織布工たちから飛び杼は不評であった。1733年にジョン・ケイが飛び杼の製造のため出資を募る事業をコルチェスターで開始した際も、熟練工たちは事業を止めさせるように請願したほどだ。ジョン・ケイはベリーで飛び杼を普及させようと試みたが、実用可能であることを毛織物業者に納得させることができずに終わった。その後2年間かけて従来のものを改良した製品を開発し、1738年にケイはリーズに移り住んだ。
しかしリーズでは特許料の未払いという問題が発生し、ここでも飛び杼が普及することはなかった。ケイは裁判で訴訟を起こしたりもしたが、裁判費用の方が高くなり破産状態になる。結局またベリーに戻るのだが、今度は暴徒に襲われるという悲劇がケイに降り掛かった。イギリスでは特許料の徴収は不可能だと悟ったケイは1747年、当時繊維産業の技術革新を援助していたフランスへと渡る。1747年はフランス政府との交渉に費やし、最終的に3,000リーブルの一時金と2,500リーブルの年金で合意となった。
当時ケイは、ノルマンディーの織物業者に飛び杼を指導することから事業を始めている。さらにフランスでは飛び杼生産の独占権も獲得したため、パリに息子3人を呼び、飛び杼の製造をさせた。実はこの頃、飛び杼がイギリスで毛織物の生産に使われていた。1753年頃にやっと飛び杼はフランスで普及したが、残念ながら出回っているものの多くはコピー製品だったのだ。フランス政府とも折り合いが付かず、1756年にケイはまたイギリスに戻る。その後も何度かフランスとイギリスを行き来しており、最終的にケイは1779年頃にフランスで亡くなったと言われているが定かではない。
#「飛び杼」が産業革命に与えた影響
飛び杼の普及にケイは苦労したが、その功績は非常に大きかった。布を織る作業効率が向上したおかげで糸不足が深刻化し、紡績能力の向上を促した。ここから産業革命は本格化したため、飛び杼の発明は産業革命の始まりとも言われている。実はケイは1746年に紡績技術の改良を行っているが、ベリーの紡績業者に嫌がられてしまった。
また、糸不足で糸の価格が上昇し、非難されることもあった。しかし、紡績能力向上に大きく貢献したジェニー紡績機が発明されたのは、ジョン・ケイが開発した飛び杼があったからと言っても過言ではない。ジェニー紡績機は1764年にイギリスで、ジェームズ・ハーグリーブスによって発明された。ジェニーはハーグリーブスの妻の名前が由来だと言われている。産業革命以前糸は、糸車と紡錘を使って生産されていた。
糸車を回しながらよりをかけたり巻き取ったりして生産するのだが、一本ずつしか作業できないため効率はよくなかった。一方ジェニー紡績機は紡錘を8本取り付けることができ、一度に多くの糸を生産できる仕組みだ。しかも一人で扱える機械で、糸を生産するのに掛かる時間が大幅に短縮された。最初の頃は6本から7本ほどの糸が一度に生産されていたが、改良が進むと取り付け可能な紡錘が16本に増え、最終的には80本もの糸が一度に生産されたのだ。
ハーグリーブスは最初の頃、ジェニー紡績機を密かに使って糸を生産していた。すると糸の相場が下落し、製糸業者から反感を買ってしまった。結局1770年にハーグリーブスはジェニー紡績機の特許を取得するが、当時既に製糸業者の多くはジェニー紡績機のコピー製品を使用していた。ジェニー紡績機のおかげで糸の生産費用が減ると、織物の価格が下がり需要は増えていった。織布工の需要も増え、賃金も上昇したのだ。
ジョン・ケイは飛び杼を発明した当時、織布工たちから非難されたが、結果としては織布工たちに貢献したと言えるだろう。画期的だったジェニー紡績機だが人力で動かすため、糸自体の強さが不足し切れやすいという弱点がある。その弱点を克服するために開発されたのが、水力紡績機だ。水力紡績機は1769年、イギリスの発明家であるリチャード・アークライトによって発明された。水力を用いる紡績機であり、糸のよりと巻き取りが同時にできる。
丈夫で太い糸が大量生産でき、水力紡績機のおかげで糸の工場生産が可能となった。イギリス製の綿製品がインドなどに輸出されるという産業構造のきっかけも、アークライトの水力紡績機の登場だと言われている。アークライトの水力紡績機にも、生産された糸の太さが均一ではないという弱点があった。そこでジェニー紡績機の糸が切れやすいという弱点と、水力紡績機の糸の太さが均一ではないという弱点を補う形で登場したのが、ミュール紡績機だ。
ミュール紡績機は1779年、イギリスの発明家であるサミュエル・クロンプトンによって発明された。ミュールは英語でラバを意味する。ラバとは馬とロバの合いの子であり、ミュール紡績機の「ミュール」はジェニー紡績機と水力紡績機の合いの子という意味で付けられた。ジェニー紡績機と水力紡績機の良いところを取り入れて開発されたミュール紡績機は、細くて強い糸の生産を可能にした。ミュール紡績機で生産された糸は多くの織物に使われ、織布が追い付かない事態となった。
すると今度は1785年に、カートライトが力織機を発明する。この織機は蒸気機関を利用したもので、手動や水力の織機と比較すると生産力が3.5倍ほど上昇した。ジョン・ケイの発明した飛び杼は、このカートライトの発明した力織機が登場するまで使われていたのだ。以上のような産業革命の重大な発明品は、ジョン・ケイの飛び杼があったからこそ生まれたとも言える。飛び杼は普及するまで様々な困難があったが、産業革命に大きく貢献した重大な発明である。
「飛び杼」の読み方
「飛び杼」の読み方は「とびひ」である。「杼」は「とち」や「どんぐり」とも読むが、この場合はよこ糸を巻いた管を舟形の胴部に収めた、織機の付属用具という意味になる「ひ」と読むのが正しい。「飛び杼」とは・「飛び杼」の意味
「飛び杼」とは・「飛び杼」の意味は、イギリスの発明家ジョン・ケイが発明した手織機用のローラー付きの杼である。飛び杼は1733年頃に発明されており、それ以前の布を織る作業では杼が使われていた。布を織る際は、たて糸とよこ糸を組み合わせていくが、その時にたて糸を上糸と下糸に分けて交差させる。そうして出来た隙間によこ糸を渡す必要があるのだが、その際によこ糸の先に杼を付けて投げ込んでいた。上糸と下糸を入れ替えて、また杼を投げ込んで反対側によこ糸を渡すという作業を繰り返すことで布は織られていくが、これはとても時間の掛かる作業であった。しかも一人では、両手の届く幅の布しか織ることができない。一方飛び杼はローラーが付いている装置で、紐を引くと杼が飛び出し、さらにもう一度紐を引けば杼がもとに戻ってくるという仕組みだ。ジョン・ケイ自身は飛び杼を「車輪付き下糸入れ(wheeled shuttle)」と名付けた。
しかし人々には杼がまるで飛んでいるかのように見え、それが由来で「飛び杼」と名付けられたと言われている。飛び杼のおかげで織り手は杼を投げ込む必要がなくなり、織りに掛かる時間が大幅に短縮された。しかも飛び杼の登場以前に必要だった杼を受け取る助手がいなくても、幅のある織機を織り手のみで扱えるようにもなったのだ。幅のある布も織れるようになった。飛び杼は誰でもほぼ同じ品質で布を織ることも可能にし、織布工の生産効率は三倍になったとも言われた。
#「飛び杼」が普及するまで
誰もが同じ品質の布を織れるというのは同時に、熟練工が不要となるということでもある。そのため、失業を恐れた織布工たちから飛び杼は不評であった。1733年にジョン・ケイが飛び杼の製造のため出資を募る事業をコルチェスターで開始した際も、熟練工たちは事業を止めさせるように請願したほどだ。ジョン・ケイはベリーで飛び杼を普及させようと試みたが、実用可能であることを毛織物業者に納得させることができずに終わった。その後2年間かけて従来のものを改良した製品を開発し、1738年にケイはリーズに移り住んだ。
しかしリーズでは特許料の未払いという問題が発生し、ここでも飛び杼が普及することはなかった。ケイは裁判で訴訟を起こしたりもしたが、裁判費用の方が高くなり破産状態になる。結局またベリーに戻るのだが、今度は暴徒に襲われるという悲劇がケイに降り掛かった。イギリスでは特許料の徴収は不可能だと悟ったケイは1747年、当時繊維産業の技術革新を援助していたフランスへと渡る。1747年はフランス政府との交渉に費やし、最終的に3,000リーブルの一時金と2,500リーブルの年金で合意となった。
当時ケイは、ノルマンディーの織物業者に飛び杼を指導することから事業を始めている。さらにフランスでは飛び杼生産の独占権も獲得したため、パリに息子3人を呼び、飛び杼の製造をさせた。実はこの頃、飛び杼がイギリスで毛織物の生産に使われていた。1753年頃にやっと飛び杼はフランスで普及したが、残念ながら出回っているものの多くはコピー製品だったのだ。フランス政府とも折り合いが付かず、1756年にケイはまたイギリスに戻る。その後も何度かフランスとイギリスを行き来しており、最終的にケイは1779年頃にフランスで亡くなったと言われているが定かではない。
#「飛び杼」が産業革命に与えた影響
飛び杼の普及にケイは苦労したが、その功績は非常に大きかった。布を織る作業効率が向上したおかげで糸不足が深刻化し、紡績能力の向上を促した。ここから産業革命は本格化したため、飛び杼の発明は産業革命の始まりとも言われている。実はケイは1746年に紡績技術の改良を行っているが、ベリーの紡績業者に嫌がられてしまった。
また、糸不足で糸の価格が上昇し、非難されることもあった。しかし、紡績能力向上に大きく貢献したジェニー紡績機が発明されたのは、ジョン・ケイが開発した飛び杼があったからと言っても過言ではない。ジェニー紡績機は1764年にイギリスで、ジェームズ・ハーグリーブスによって発明された。ジェニーはハーグリーブスの妻の名前が由来だと言われている。産業革命以前糸は、糸車と紡錘を使って生産されていた。
糸車を回しながらよりをかけたり巻き取ったりして生産するのだが、一本ずつしか作業できないため効率はよくなかった。一方ジェニー紡績機は紡錘を8本取り付けることができ、一度に多くの糸を生産できる仕組みだ。しかも一人で扱える機械で、糸を生産するのに掛かる時間が大幅に短縮された。最初の頃は6本から7本ほどの糸が一度に生産されていたが、改良が進むと取り付け可能な紡錘が16本に増え、最終的には80本もの糸が一度に生産されたのだ。
ハーグリーブスは最初の頃、ジェニー紡績機を密かに使って糸を生産していた。すると糸の相場が下落し、製糸業者から反感を買ってしまった。結局1770年にハーグリーブスはジェニー紡績機の特許を取得するが、当時既に製糸業者の多くはジェニー紡績機のコピー製品を使用していた。ジェニー紡績機のおかげで糸の生産費用が減ると、織物の価格が下がり需要は増えていった。織布工の需要も増え、賃金も上昇したのだ。
ジョン・ケイは飛び杼を発明した当時、織布工たちから非難されたが、結果としては織布工たちに貢献したと言えるだろう。画期的だったジェニー紡績機だが人力で動かすため、糸自体の強さが不足し切れやすいという弱点がある。その弱点を克服するために開発されたのが、水力紡績機だ。水力紡績機は1769年、イギリスの発明家であるリチャード・アークライトによって発明された。水力を用いる紡績機であり、糸のよりと巻き取りが同時にできる。
丈夫で太い糸が大量生産でき、水力紡績機のおかげで糸の工場生産が可能となった。イギリス製の綿製品がインドなどに輸出されるという産業構造のきっかけも、アークライトの水力紡績機の登場だと言われている。アークライトの水力紡績機にも、生産された糸の太さが均一ではないという弱点があった。そこでジェニー紡績機の糸が切れやすいという弱点と、水力紡績機の糸の太さが均一ではないという弱点を補う形で登場したのが、ミュール紡績機だ。
ミュール紡績機は1779年、イギリスの発明家であるサミュエル・クロンプトンによって発明された。ミュールは英語でラバを意味する。ラバとは馬とロバの合いの子であり、ミュール紡績機の「ミュール」はジェニー紡績機と水力紡績機の合いの子という意味で付けられた。ジェニー紡績機と水力紡績機の良いところを取り入れて開発されたミュール紡績機は、細くて強い糸の生産を可能にした。ミュール紡績機で生産された糸は多くの織物に使われ、織布が追い付かない事態となった。
すると今度は1785年に、カートライトが力織機を発明する。この織機は蒸気機関を利用したもので、手動や水力の織機と比較すると生産力が3.5倍ほど上昇した。ジョン・ケイの発明した飛び杼は、このカートライトの発明した力織機が登場するまで使われていたのだ。以上のような産業革命の重大な発明品は、ジョン・ケイの飛び杼があったからこそ生まれたとも言える。飛び杼は普及するまで様々な困難があったが、産業革命に大きく貢献した重大な発明である。
とび‐ひ【飛(び)火】
とびひ
とびひと同じ種類の言葉
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