地図測量人名事典 |
玉川庄右衛門(たまがわしょうえもん ?-1706)玉川清右衛門(たまがわせいえもん ?-1715)
玉川上水開削者。
三代将軍家光代の頃(1623年~)になると、諸国の二百数十の大名の参勤交代の制度もすっかり定着して、江戸には大名やその家臣が屋敷を構え、商人や職人も定着し、人口はふくれあがり、従来の上水だけでは江戸の台所の水は賄えなくなってきた。
承応元年(1652年)幕府は、多摩川から江戸に上水を引く計画を立てた。当時芝に住んでいた庄右衛門、清右衛門兄弟から願い書提出の形で、玉川上水は実施に移されたといわれる。また、幕閣の反対を押し切って、この願い書を取り上げたのは名君保科正之だという。
承応2年4月から工事は着工され、羽村の取水口から四谷大木戸まで約 43km、標高差約92mを、鍬、ツルハシ、もっこ程度の道具だけで、僅か八カ月で工事を完成させた。上水は、四谷大木戸から、さらに石樋や木樋を使って江戸城下の町々へと配流されて、市民の水需要に応えた。これが完成したのは承応3年6月であった。 工事は、「水喰土(みずくらんど)」と呼ばれる地(断層か)で、水が地中に吸い込まれる事態に陥るなどのことから、当初予定していた取水地点の変更を余儀なくされるなど、苦難の連続で、幕府からの六千両の下賜金も使い果たし、私財を投げ打って完成させたといわれる。また、この工事には、川越藩主松平信綱の家臣安松金右衛門の援助もあったといわれる。完成後、兄弟は苗字帯刀を許され、上水の維持管理の役、今でいえば水道使用料の徴収権を獲得した。
玉川兄弟の測量は、束にした線香を竹竿にくくりつけたものや提灯の明かりを利用して夜間に行ったといわれるが、当然地図も重要な働きをしたと思われるが、どのような地図が使用されたかは明らかでない。
三代将軍家光代の頃(1623年~)になると、諸国の二百数十の大名の参勤交代の制度もすっかり定着して、江戸には大名やその家臣が屋敷を構え、商人や職人も定着し、人口はふくれあがり、従来の上水だけでは江戸の台所の水は賄えなくなってきた。
承応元年(1652年)幕府は、多摩川から江戸に上水を引く計画を立てた。当時芝に住んでいた庄右衛門、清右衛門兄弟から願い書提出の形で、玉川上水は実施に移されたといわれる。また、幕閣の反対を押し切って、この願い書を取り上げたのは名君保科正之だという。
承応2年4月から工事は着工され、羽村の取水口から四谷大木戸まで約 43km、標高差約92mを、鍬、ツルハシ、もっこ程度の道具だけで、僅か八カ月で工事を完成させた。上水は、四谷大木戸から、さらに石樋や木樋を使って江戸城下の町々へと配流されて、市民の水需要に応えた。これが完成したのは承応3年6月であった。 工事は、「水喰土(みずくらんど)」と呼ばれる地(断層か)で、水が地中に吸い込まれる事態に陥るなどのことから、当初予定していた取水地点の変更を余儀なくされるなど、苦難の連続で、幕府からの六千両の下賜金も使い果たし、私財を投げ打って完成させたといわれる。また、この工事には、川越藩主松平信綱の家臣安松金右衛門の援助もあったといわれる。完成後、兄弟は苗字帯刀を許され、上水の維持管理の役、今でいえば水道使用料の徴収権を獲得した。
玉川兄弟の測量は、束にした線香を竹竿にくくりつけたものや提灯の明かりを利用して夜間に行ったといわれるが、当然地図も重要な働きをしたと思われるが、どのような地図が使用されたかは明らかでない。
江戸人物事典 |
玉川 庄右衛門 (たまがわ しょうえもん)
| ?〜1695 (??年〜元禄8年) |
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【玉川上水の開削請負人】 玉川上水を開き、江戸の飲料水を供給。 |
| 玉川上水の開削請負人。1653年、幕府の命により弟清右衛門とともに上水開削の請負人となった。平坦な武蔵野台地のわずかな勾配を利用、多摩川の水を羽村から引き入れて、四谷大木戸までの42.7?に及ぶ露天掘りの玉川上水を竣工させた。この功により玉川姓を賜わり、玉川上水役を任じられたが、3代のとき不届きがあり江戸払いとなった。 |
年(和暦) |
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| ●1663年 (寛文3年) | ■武家諸法度改定 | |
| ●1681年 (天和元年) | ■護国寺建立 | |
| ●1682年 (天和2年) | ■江戸大火(八百屋お七の火事) | |
| ●1687年 (貞享4年) | ■生類憐みの令 |
人物名 |
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