地図測量人名事典 |
建部賢弘(たてべ かたひろ 1664-1739)
江戸時代の数学者。「享保日本図」の製作者。
建部賢弘は、徳川家光の右筆建部直恒の三男として生まれ、幼名を源右衛門、のちに彦次郎ともいった。
賢弘も甲府の綱豊、のちの六代将軍家宣、七代家継、八代吉宗に右筆として仕えた。賢弘は、兄の賢明とともに数学者関孝和に学び、師の後継者とみなされるほどであった。関と建部兄弟によって、天和3年(1683)から宝永7年(1710)までの28年をかけて数学の研究著作が進められ、関孝和の業績と建部の研究成果をおさめた「大成算経」全20巻を完成させた。その他にも数学関係の著作が多数あり、今でいう三角関数(「弧背術」享保7年1722)や級数展開(「綴術算経」享保7年1722)にも触れている。 地図・測量との関わりでは、信任されていた吉宗の天文・暦学の顧問となり、城中においても天文観測にあたった。
幕命による日本全図は、主に慶長(1596~)、正保(1644~)、元禄(1688~)、天保(1830~)の4回作製された。しかし、元禄期に作製されたものは、四国の位置が他の日本全図と著しく異なるなど、不満の残るものであったことから、幕府は、北条氏如と建部賢弘に再作製を命じたという。
建部賢弘は、享保4年(1719)に命を受けてから、4年後に「元禄図」をもとにした「享保日本図」を完成させた。同図の原本は現存しないが、国絵図作成にあたっては、諸国から特定の高山などの目標物を視準させ報告させた。この結果に基づき国絵図が結合された日本全図の位置関係は優れたものになったという。
「見立輿地図」(享保8年1742)には、見盤と磁石による建部らの交会法による測量法について著されているという。
建部賢弘は、徳川家光の右筆建部直恒の三男として生まれ、幼名を源右衛門、のちに彦次郎ともいった。
賢弘も甲府の綱豊、のちの六代将軍家宣、七代家継、八代吉宗に右筆として仕えた。賢弘は、兄の賢明とともに数学者関孝和に学び、師の後継者とみなされるほどであった。関と建部兄弟によって、天和3年(1683)から宝永7年(1710)までの28年をかけて数学の研究著作が進められ、関孝和の業績と建部の研究成果をおさめた「大成算経」全20巻を完成させた。その他にも数学関係の著作が多数あり、今でいう三角関数(「弧背術」享保7年1722)や級数展開(「綴術算経」享保7年1722)にも触れている。 地図・測量との関わりでは、信任されていた吉宗の天文・暦学の顧問となり、城中においても天文観測にあたった。
幕命による日本全図は、主に慶長(1596~)、正保(1644~)、元禄(1688~)、天保(1830~)の4回作製された。しかし、元禄期に作製されたものは、四国の位置が他の日本全図と著しく異なるなど、不満の残るものであったことから、幕府は、北条氏如と建部賢弘に再作製を命じたという。
建部賢弘は、享保4年(1719)に命を受けてから、4年後に「元禄図」をもとにした「享保日本図」を完成させた。同図の原本は現存しないが、国絵図作成にあたっては、諸国から特定の高山などの目標物を視準させ報告させた。この結果に基づき国絵図が結合された日本全図の位置関係は優れたものになったという。
「見立輿地図」(享保8年1742)には、見盤と磁石による建部らの交会法による測量法について著されているという。
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