地図測量人名事典 |
館潔彦(たてきよひこ 1850-1903)
陸地測量師、一等三角点の選点者。
館(舘)潔彦は、嘉永 2年(1849)伊勢国桑名で桑名藩士館淳夫の長男として生まれた。
幼名を釘太郎といい、明治元年19歳のとき(桑名立教館から)東京に出て、門人30数名ばかりの岸永衛の塾で英学と数学を学んだ。明治 5年工部省に出仕し、測量四等少手に任ぜられた。当時工部省の測量は、測量師長マクヴインを筆頭に、ジョイネル、ハーデイ、シャボーらの英人を招聘して技術の習得に努めていた。館は早速、東京府下の三角測量に従事したと思われる。
基線を越中島と洲崎弁天島間に設定し、十三カ所の三角点を選定した。その時(明治 5年)観測に使用できた経緯儀は三台で、招聘外人だけが使用可能で、日本の技術者の使用できるものがないため、館を横浜に使わして必要機器を購入したという。
同 9年内務省が火災に遭い、先に英人らの手で作成した東京府下測量の原図は、灰となるに及んで再び館、阿蘇沼次郎、三輪輔之らの日本人の手で三角測量に着手した。この時も明治 7年に設置した本所一ツ目と同二ツ目間の基線を再測し、二十六カ所の三角点を増設し標石も埋設したという。館らはこれらの測量で、近代測量の基本を習得したと思われる。 その後は、基線測量などに従事した後、陸軍省参謀本部に測量局が設置されるに及んで陸軍技師となり、一等三角測量の選点を担当する。アルプスから九州、四国、中国、北海道、そして千島の果てまで日本国中の山野を跋渉した。登山技術や整備が未熟な時代にあって、未開の山岳地帯を鳥打ち帽子に洋服、脚絆の出で立ちで測夫を従えての測量は、文字どおり言葉では言い現せないものに違いなく、幾多の危険に遭遇したに違いない。
ウエストン著の「日本アルプス登山と探検」(角川文庫)には、「政府の役人(陸軍省の調査官)が穂高岳の最初の登山に成功したが、そのとき彼は山頂近くの岩場で滑落し、岩に激しくぶつかったが、奇跡的に助かった」と記している。実際に館の次男「館香緑」の懐古談でも、「父は全国の山を征服したが、ただ一度命を落としそうな危機に遭った。それは北アルプス穂高で、槍ケ岳の帰途に岩角につまずいて急斜面を滑り落ち、この時ばかりは父も南無阿弥陀仏と唱えたという。事故後には富山の病院に運ばれ、幸い十数日間の入院で全快したが、その時の鮮血に染まった洋服は永く我が家にあった」と話している。
このように館の名は、測量技術者としてよりも登山家の中で有名であるが、もっと測量技術者の中で尊敬され理解されても良い人である。内では、歌と画をたしなみ50数点のスケッチを残していた。明治36年54歳で休職、同38年に退官し、昭和 2年に郷里の桑名で亡くなった。
館(舘)潔彦は、嘉永 2年(1849)伊勢国桑名で桑名藩士館淳夫の長男として生まれた。
幼名を釘太郎といい、明治元年19歳のとき(桑名立教館から)東京に出て、門人30数名ばかりの岸永衛の塾で英学と数学を学んだ。明治 5年工部省に出仕し、測量四等少手に任ぜられた。当時工部省の測量は、測量師長マクヴインを筆頭に、ジョイネル、ハーデイ、シャボーらの英人を招聘して技術の習得に努めていた。館は早速、東京府下の三角測量に従事したと思われる。
基線を越中島と洲崎弁天島間に設定し、十三カ所の三角点を選定した。その時(明治 5年)観測に使用できた経緯儀は三台で、招聘外人だけが使用可能で、日本の技術者の使用できるものがないため、館を横浜に使わして必要機器を購入したという。
同 9年内務省が火災に遭い、先に英人らの手で作成した東京府下測量の原図は、灰となるに及んで再び館、阿蘇沼次郎、三輪輔之らの日本人の手で三角測量に着手した。この時も明治 7年に設置した本所一ツ目と同二ツ目間の基線を再測し、二十六カ所の三角点を増設し標石も埋設したという。館らはこれらの測量で、近代測量の基本を習得したと思われる。 その後は、基線測量などに従事した後、陸軍省参謀本部に測量局が設置されるに及んで陸軍技師となり、一等三角測量の選点を担当する。アルプスから九州、四国、中国、北海道、そして千島の果てまで日本国中の山野を跋渉した。登山技術や整備が未熟な時代にあって、未開の山岳地帯を鳥打ち帽子に洋服、脚絆の出で立ちで測夫を従えての測量は、文字どおり言葉では言い現せないものに違いなく、幾多の危険に遭遇したに違いない。
ウエストン著の「日本アルプス登山と探検」(角川文庫)には、「政府の役人(陸軍省の調査官)が穂高岳の最初の登山に成功したが、そのとき彼は山頂近くの岩場で滑落し、岩に激しくぶつかったが、奇跡的に助かった」と記している。実際に館の次男「館香緑」の懐古談でも、「父は全国の山を征服したが、ただ一度命を落としそうな危機に遭った。それは北アルプス穂高で、槍ケ岳の帰途に岩角につまずいて急斜面を滑り落ち、この時ばかりは父も南無阿弥陀仏と唱えたという。事故後には富山の病院に運ばれ、幸い十数日間の入院で全快したが、その時の鮮血に染まった洋服は永く我が家にあった」と話している。
このように館の名は、測量技術者としてよりも登山家の中で有名であるが、もっと測量技術者の中で尊敬され理解されても良い人である。内では、歌と画をたしなみ50数点のスケッチを残していた。明治36年54歳で休職、同38年に退官し、昭和 2年に郷里の桑名で亡くなった。
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