地図測量人名事典 |
田口俊平(たぐちしゅんぺい 1818-1867)
幕末期、測量術習得を目指しオランダ留学した技術者。
文久2(1862)年、徳川幕府は先進国の軍事技術・学問修得のため、優秀な幕臣と職人を選抜してオランダに派遣した。
このときの留学生の内訳は、海軍士官が内田恒次郎(船具・運用・砲術)、榎本釜次郎(船具・運用・砲術・機関学)、沢太郎左衛門(砲術)、赤松大三郎(造船学)、田口俊平(測量術)のほか、津田真一郎(法律・財政学)、西周助(法律・財政学)、伊東玄伯(医学)、林研海(医学)と、大工や鋳物師、鍛冶職、水夫等の技術者6名というもの。
一行は同年9月長崎から出帆し、オランダに到着したのは翌文久3年4月のことであった。
留学生らは、同地で勉学に励み、慶応元年(1865)から4年(1868)年にかけて順次帰国し、日本の諸科学の基礎を築いた。しかし、田口はその成果を発揮することなく、帰国後ほどなく病死した。
文久2(1862)年、徳川幕府は先進国の軍事技術・学問修得のため、優秀な幕臣と職人を選抜してオランダに派遣した。
このときの留学生の内訳は、海軍士官が内田恒次郎(船具・運用・砲術)、榎本釜次郎(船具・運用・砲術・機関学)、沢太郎左衛門(砲術)、赤松大三郎(造船学)、田口俊平(測量術)のほか、津田真一郎(法律・財政学)、西周助(法律・財政学)、伊東玄伯(医学)、林研海(医学)と、大工や鋳物師、鍛冶職、水夫等の技術者6名というもの。
一行は同年9月長崎から出帆し、オランダに到着したのは翌文久3年4月のことであった。
留学生らは、同地で勉学に励み、慶応元年(1865)から4年(1868)年にかけて順次帰国し、日本の諸科学の基礎を築いた。しかし、田口はその成果を発揮することなく、帰国後ほどなく病死した。
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