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たかみ-せんせき 【鷹見泉石】
(1785-1858) 江戸後期の武士・蘭学者。名は忠常。下総(しもうさ)古河藩の家老として、藩主が大坂城代の時、大塩平八郎の乱を平定。蘭学・露語を学び、「和蘭国全図」を著すなど地理研究でも知られる。渡辺崋山の師。
地図測量人名事典 |
鷹見泉石(たかみせんせき 1785-1858)
古河藩家老、地理・地図資料を収集。
古河藩士鷹見泉石は、十代古河藩主土井利厚と十一代藩主土井利位(としつら)に仕えた。
多くの地理・地図資料を収集した鷹見泉石は、天明 5年古河藩の鷹見忠徳の子として生まれ、名を鷹見左衛門忠常といい、隠居してから泉石と号したことから、この名で呼ばれる。
彼は12歳にして江戸藩邸に上り、藩主利厚に近侍した。15歳から小姓となり、まもなく藩主の小納戸格取次という秘書としての職務についた。当時藩主は、現在の外務・防衛大臣にあたる海防掛老中にあったことから、泉石自身も西欧諸国の接近に伴う難事件の処理にあたった。特にこの時期は、北方問題が重要案件になっていることもあり、この解決にあたると同時に、北方・蝦夷関係及び洋学・蘭学に接する機会にも恵まれた。 彼の収集した資料は、約 9,000点以上にも及びその範囲は、語学、地図、地理、天文、物理、測量、兵学、絵画など広範囲に及んでいると同時に、単に趣味としての収集だけではなく、職務上の知識向上、問題解決のために入手につとめたものが大部分である。特に、地図・地理書の類は 1,000点を越える。もっとも彼は、若年の頃から地図に興味を持ったようで、コレクションには小姓時代に写したと思われる地図も見受けられる。
収集した地図の多くは自らの手による写図の類であるが、古河藩の村絵図、江戸の地図、その他の国絵図のほか、一般に刊行された日本全図や世界全図など広範に及んでいる。
この中には、近藤重蔵作の「蝦夷全図」の写し、間宮林蔵作「北蝦夷地全図」の写し、伊能忠敬作「大日本沿海輿地全図」小図の東図1枚の写し、ロシア使節レザノフが長崎奉行に贈った「ロシア帝国全図」の写しほか、本初子午線を金華山とする作者不詳の円筒図法の珍しい世界図「新製総界全覧方図」などが含まれている。また、オランダにおける城砦の間隔一覧表を参考にして作成したと思われる「日光駅路里数之表」(1823年)と、古河に隠居してから作成した詳細なオランダの地図「新訳和蘭国全図」(1850年)は、彼の地理学的業績といわれる。
地図収集だけでなく、洋学知識のほか、蘭学・中国・ロシア語も解し、行政能力にも優れた開明学者であった。
古河藩士鷹見泉石は、十代古河藩主土井利厚と十一代藩主土井利位(としつら)に仕えた。
多くの地理・地図資料を収集した鷹見泉石は、天明 5年古河藩の鷹見忠徳の子として生まれ、名を鷹見左衛門忠常といい、隠居してから泉石と号したことから、この名で呼ばれる。
彼は12歳にして江戸藩邸に上り、藩主利厚に近侍した。15歳から小姓となり、まもなく藩主の小納戸格取次という秘書としての職務についた。当時藩主は、現在の外務・防衛大臣にあたる海防掛老中にあったことから、泉石自身も西欧諸国の接近に伴う難事件の処理にあたった。特にこの時期は、北方問題が重要案件になっていることもあり、この解決にあたると同時に、北方・蝦夷関係及び洋学・蘭学に接する機会にも恵まれた。 彼の収集した資料は、約 9,000点以上にも及びその範囲は、語学、地図、地理、天文、物理、測量、兵学、絵画など広範囲に及んでいると同時に、単に趣味としての収集だけではなく、職務上の知識向上、問題解決のために入手につとめたものが大部分である。特に、地図・地理書の類は 1,000点を越える。もっとも彼は、若年の頃から地図に興味を持ったようで、コレクションには小姓時代に写したと思われる地図も見受けられる。
収集した地図の多くは自らの手による写図の類であるが、古河藩の村絵図、江戸の地図、その他の国絵図のほか、一般に刊行された日本全図や世界全図など広範に及んでいる。
この中には、近藤重蔵作の「蝦夷全図」の写し、間宮林蔵作「北蝦夷地全図」の写し、伊能忠敬作「大日本沿海輿地全図」小図の東図1枚の写し、ロシア使節レザノフが長崎奉行に贈った「ロシア帝国全図」の写しほか、本初子午線を金華山とする作者不詳の円筒図法の珍しい世界図「新製総界全覧方図」などが含まれている。また、オランダにおける城砦の間隔一覧表を参考にして作成したと思われる「日光駅路里数之表」(1823年)と、古河に隠居してから作成した詳細なオランダの地図「新訳和蘭国全図」(1850年)は、彼の地理学的業績といわれる。
地図収集だけでなく、洋学知識のほか、蘭学・中国・ロシア語も解し、行政能力にも優れた開明学者であった。
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