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かめやまてんのう ―てんわう 【亀山天皇】
美術人名辞典 |
亀山天皇
読み方:かめやま てんのう
第九十代天皇。御嵯峨天皇の第三皇子、母は大宮院結子、名は恒仁。父母に寵愛され、兄後深草天皇を措いて天皇親政を行ったため、大覚寺統(亀山系)と持明院統(後深草系)の対立がおこる発端となる。皇子後宇多天皇に譲位し、院政を開始、『弘安礼節』を制定する等意欲的に政治を行った。『続拾遺集』の選進を命じるなど和歌・漢詩文を能くした。嘉元3年(1305)崩御、57才。
第九十代天皇。御嵯峨天皇の第三皇子、母は大宮院結子、名は恒仁。父母に寵愛され、兄後深草天皇を措いて天皇親政を行ったため、大覚寺統(亀山系)と持明院統(後深草系)の対立がおこる発端となる。皇子後宇多天皇に譲位し、院政を開始、『弘安礼節』を制定する等意欲的に政治を行った。『続拾遺集』の選進を命じるなど和歌・漢詩文を能くした。嘉元3年(1305)崩御、57才。
歴代天皇事典 |
亀山天皇
後嵯峨天皇の第3皇子で、母は西園寺実氏の娘キツ子。
同母兄の後深草天皇の皇太子となり、1259年に即位。
1268年(文永五年)に高麗から使者が来て、蒙古皇帝フビライハーンからの国書を大宰府に提出した。
その国書を幕府は朝廷に奏上したが朝廷は返書を出さないことに決定した。
この後幕府は西国の御家人らに警戒を呼びかけた。
朝廷は諸国の寺社に対して「敵国降伏」の祈祷を行うよう命じた。
この後日本国は朝野をあげて「敵国降伏」の祈願をすることになる。
しかし、ついに1274年(文永11年)10月蒙古の大軍が襲来(文永の役)した。
いずれも日本軍との戦闘方式が異なるなど、日本軍の劣勢であった。
「国難至る」の報は全国にもたらされた。
その功があってか蒙古の兵は撤兵した。
一方天皇家では、1272年に後嵯峨上皇が没すると兄後深草上皇を置いて、鎌倉幕府の裁定により亀山天皇がいわゆる「治天の君」となり天皇親政を行った。
1274年に亀山天皇の第2皇子世仁親王(後宇多天皇)に譲位した。
しかし、後深草上皇も幕府に積極的に働きかけて1275年に後深草上皇の第2皇子熙仁親王(伏見天皇)を皇太子に立てた。
この後、1287年に伏見天皇が即位して皇位が「持明院統」に移り優勢になると、亀山上皇は出家した。
同母兄の後深草天皇の皇太子となり、1259年に即位。
1268年(文永五年)に高麗から使者が来て、蒙古皇帝フビライハーンからの国書を大宰府に提出した。
その国書を幕府は朝廷に奏上したが朝廷は返書を出さないことに決定した。
この後幕府は西国の御家人らに警戒を呼びかけた。
朝廷は諸国の寺社に対して「敵国降伏」の祈祷を行うよう命じた。
この後日本国は朝野をあげて「敵国降伏」の祈願をすることになる。
しかし、ついに1274年(文永11年)10月蒙古の大軍が襲来(文永の役)した。
いずれも日本軍との戦闘方式が異なるなど、日本軍の劣勢であった。
「国難至る」の報は全国にもたらされた。
その功があってか蒙古の兵は撤兵した。
一方天皇家では、1272年に後嵯峨上皇が没すると兄後深草上皇を置いて、鎌倉幕府の裁定により亀山天皇がいわゆる「治天の君」となり天皇親政を行った。
1274年に亀山天皇の第2皇子世仁親王(後宇多天皇)に譲位した。
しかし、後深草上皇も幕府に積極的に働きかけて1275年に後深草上皇の第2皇子熙仁親王(伏見天皇)を皇太子に立てた。
この後、1287年に伏見天皇が即位して皇位が「持明院統」に移り優勢になると、亀山上皇は出家した。
| 第90代天皇 | |
| 天皇名 | 亀山天皇 |
| 読み方 | かめやまてんのう |
| 名・諱等 | 恒仁親王 |
| 読み方 | つねひとしんのう |
| 時代区分 | 中世 |
| 天皇在位 | 1259年から1274年 |
| 生年 | 1249 |
| 没年 | 1305 |
| 父 | 後嵯峨天皇 |
| 母 | 大宮院キッ子 |
| 兄弟 | 宗尊親王・久仁親王 |
| 配偶者 | 洞院キッ子 |
| 皇子女 | 世仁親王 |
| 即位宮 | 平安京 |
| 天皇陵 | 龜山陵 |
| 所在地 | 京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町 |
歴代天皇陵一覧 |
龜山天皇 龜山陵
(かめやまてんのう かめやまのみささぎ)
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かめやまてんのうに関連した本
- 天皇皇族実録 64-65(全2巻) ゆまに書房
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