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鎌倉大仏殿跡

名称: 鎌倉大仏殿跡
ふりがな かまくらだいぶつでんあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 神奈川県
市区町村 鎌倉市長谷
管理団体
指定年月日 2004.02.27(平成16.02.27)
指定基準 史3
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 鎌倉大仏殿跡は、史跡大仏切通南東約350m、鎌倉市長谷谷部所在し、国宝銅造阿弥陀如来坐像は、鎌倉大仏露坐大仏として親しまれている。鎌倉大仏及び大仏殿は、勧進裁許をはじめ、鎌倉幕府全面的支援造営されたと考えられる鎌倉大仏は、建長4年(1252)8月17日鋳造開始した金銅の「八丈釈迦如来像」(『吾妻鏡』)であるとされており、文永元年(1264)8月在銘金峰山寺蔵王堂鐘銘に「新大鋳物師丹治久友」とあることから、遅くともこれ以前には完成していた。同5年日蓮書状に「大仏殿別当」とあることから、寺院名は「大仏殿」で、大仏殿建物この頃には完成していたと考えられる
 大仏殿は、嘉元3年(1305)頃に倒壊し、元徳元年(1329)には翌年関東大仏造営唐船発遣決まり(『金沢文庫文書』)、再建が図られたが、建武元年(1334)に大風倒壊した(『太平記』)。応安2年1369)にも大風倒壊し、これ以降再建記録がない。文明18年(1486)に大仏訪れ万里集九は、堂宇はなくて露坐であったと記している(『梅花無尽蔵』)。
 大仏は、南北朝期頃から江戸前期にかけて建長寺管理下に置かれていた。元禄16年(1703)の大地震破損したが、正徳2年(1712)に江戸浅草豪商野島新左衛門から寺地屋敷等の寄進を受けた増上寺祐天上人によって復興され、別当寺新左衛門法名から高徳院命名された。享保18年(1733)に養国上人が高徳院初代住職となり、元文2年(1737)に大仏修理が行われた。江戸時代初期にはヨーロッパ人宣教師平戸商館長などが訪れて、大仏ヨーロッパ紹介している。江戸末期には外国人横浜居留地からの鎌倉遊覧許可され、多く欧米人大仏訪れている。
 平成12年度から13年度に、鎌倉市教育委員会大仏周辺発掘調査行い大仏鋳型周囲順次土を盛り上げていった斜めの土層の鋳造遺構確認した。この堆積土は大仏鋳造後に削平され、礎石を据えるための根固め工事が行われていた。根固め遺構は、直径3m深さ約2mの穴を掘り、砂利凝灰岩交互突き固めており、大仏中心方形配置されている。大仏殿跡は、桁行145尺(43.94m)、梁行140尺(42.42m)、中央柱間27尺(8.18m)、脇柱22尺(6.67m)の五間四方で、周囲柱間15尺(4.55m)の裳階が付く建物であると復元された。大仏殿跡は大仏同様に南面しており、根固め遺構大仏との位置関係整合することから、大仏創建以来位置向き不変であること、創建当時大仏殿東側から南側は広い沼や湿地帯が広がっていたこと、南側は13世紀末頃に埋め立てられて参道が造られたことが確認された。
 現在、高徳院境内には直径約2m、厚さ60cm円盤状の安山岩礎石53散在しており、これらが根固め遺構の上に据えられていたと推定される。この形式礎石建長寺極楽寺礎石と共通しており、大仏殿中国から導入された建築様式であったと考えられる鎌倉市教育委員会による発掘調査でも、これまでの遺物採取調査でも瓦片が確認されていないことから、大仏殿屋根初期建長寺と同様の?葺ないしは桧皮葺であったと推定される。
 鎌倉大仏殿跡は、関東鎮護のために鎌倉幕府造営した大仏鋳造過程を示す遺構大仏殿建物跡の遺構などが良好遺存しており、背景山稜までも含めて史跡指定して保護を図ろうとするものである
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