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天理教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/20 12:37 UTC 版)

(おさしづ から転送)

天理教
天理教の紋(中山家の家紋、梅鉢を象ったもの)
教会本部。正面が南礼拝場、右手が東礼拝場、左手が西礼拝場
設立年 1838年
種類 宗教法人
本部 日本の旗 日本 奈良県天理市三島町271
公用語 日本語
設立者 中山みき
ウェブサイト 天理教ホームページ
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天理教(てんりきょう)は、日本江戸時代末に成立した新宗教の一つ。中山みき教祖(おやさま)とする宗教団体である。狭義には奈良県天理市に本拠地を置く包括宗教法人(宗教法人天理教)およびその傘下の被包括宗教法人(教会本部及び一般教会)を指すが、広義には中山みきが伝えた教義そのものを指す場合があり、信仰する単立の宗教法人もある。本稿では、狭義の天理教を中心に述べる。

目次

概要

「宗教法人天理教」及びその被包括法人である「宗教法人天理教教会本部(略して教会本部)」は奈良県天理市にあり、またその傘下にある一般教会は各地に点在する。

主神は天理王命(てんりおうのみこと)。教会本部、各地の一般教会では、天理王命とともに教祖と御霊の社を置き礼拝しているが、一神教(一つの神のみを信仰する宗教)である。

「陽気ぐらし」という世界の実現を目指している。

教祖は中山みき。教会本部では「教祖」と書いて「おやさま」と呼称している。教祖は90歳で目に見える存在は隠されたが、その魂は今でも現世に生きており、人々の暮らしを見守っている。

現在の統理者は真柱(しんばしら)・中山善司。

天理教では、人間のの発祥地の中心を「ぢば」(地場)と称し、教祖の「ぢばさだめ」という啓示でその場所を定めている。現在の天理教教会本部は、この「ぢば」を中心に建られている。通常は、丁寧語の「お」をつけて「おぢば」と呼び、人がこの地を訪れることは、故郷に帰ることであるから、「おぢばがえり」と呼んでいる。そのため天理駅や天理市内の信者詰所等には「お帰りなさい」や「ようこそおかえり」などという看板が見られる。

「ぢば」の中心には、六角形をした「かんろだい」(甘露台)[1]が置かれた「神殿」が建てられ、四方から囲むように信者等が礼拝する四つの「礼拝場」がある。そのほか教会本部には、教祖が存命のまま暮らしているとされる「教祖殿」(きょうそでん)、御霊を祀る「祖霊殿」(それいでん)等があり、誰もが自由に出入りすることができる。「神殿」では、毎日朝晩に「おつとめ」という定例の礼拝が行われており、また毎月26日は、「月次祭」(つきなみさい)という礼拝が行われる。傘下にある一般教会等においても、その例に倣い、「親神」「教祖」「御霊」を祀る御社を設置し、「おつとめ」や「月次祭」の礼拝が行われている。

礼拝する際、信者は「あしきをはろうてたすけたまえてんりおうのみこと」と唱え、そこに定まった手振りを加え、親神天理王命に祈りをささげる[2]

かつて教派神道の一派として公認され活動していた(詳細は後述)ため、葬儀式等に見られるように神道の影響を大きく受けており、現在も「神道系宗教」とみなされることが多いが、教団側では新宗教諸派と称しており、宗教法人としての届けは「諸教」としてなされている。

天理教は「かなの教え」とも説かれる。教祖である中山みきが、民衆にも分かりやすく説きたいとの意思から、『おふでさき』『みかぐらうた』が仮名で書かれている。教義等に使われる言葉の多くが「かな表記」にされている[3]

基本的に信者達は、その信心実践の証明としてハッピを平服の上から着用する。主に黒でできており、その背には「天理教」「TENRIKYO」等が、襟表には所属団体名などが白字で記載されている[4]。元々はおつとめ着や教服の略装であったが、現在はひのきしんやにをいがけ等、教団行事の際の着用服という意味合いもある。

教勢

天理教の信者数は明治末から大正・昭和初期にかけて大きく増加し、明治末期には300~800万人以上にのぼったといわれている[5]。特に教祖30年祭及び40年祭が執行された大正から昭和初期頃にかけて行われた「教勢倍加運動」によって信者を獲得しており、時を同じくして分派団体が多く発生している(分派については後述)。また、当時の日本であった朝鮮半島や台湾においても布教が進み、現地人の信者が増加した(海外布教については後述)。戦前においては新宗教の中で最も大きな教団に成長し、現在のところ教会本部の公称では220万人程度としている。ただし、日本の宗教統計(『宗教年鑑』など)では各教団の信者・信徒数は国民の総人口よりも多いことから理解できるように、この中には、他宗教に帰依した状態で天理教の信仰を行なっている者の数も含まれている。




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  1. ^ 横から見た図上から見た図ホゾの図 天理と刻限サイトより
  2. ^ 実際には、「あしきをはろうてたすけたまえ」で始まる詞句を21回、「ちょいとはなし」で始まる詞句を1回、「あしきをはろうてたすけせきこむ」で始まる詞句を3回づつ3度に分けて唱える一連の詠唱を「おつとめ」と称する
  3. ^ 「ぢば」は「地場」、「いんねん」は「因縁」、「おふでさき」は「御筆先」、「みかぐらうた」は「神楽歌」と言った語源があるものの、教団内では全てかなで表記される。
  4. ^ 通常、表側(右側)の襟に大教会名を、下側(左側)の襟に分教会・布教所名などを入れる。ただし修養科生が着るハッピについては、表側の襟に「修養科生」、下側の襟に大教会名を書く
  5. ^ 新興宗教を考察する
  6. ^ 。この際みきの口を通して初めて出た神名は「元の神、実の神」であった。
  7. ^ 教団ではこの一連の活動を「一派独立運動」と呼称している
  8. ^ ただし天理教に限らず、明治以降は他にも大本ひとのみち教団等他宗教も当局から苛烈な弾圧を受けていた
  9. ^ 特に第7号には「身を軍籍に奉じて、国家の為に赴く者にありては、挺身武人の亀鑑を垂れ、銃後にありては、身を持すること険素に、勇躍以て奉公の事に従い、率先ひのきしんに参じて、邦家の緩急に応え、教祖様垂示の大精神を発揮して、敢然時艱を克服する為、一手一つに、感奮興起すべき至旬なりと確信す」と、かなり強い語調で各信者への翼賛的協力が指示されている。
  10. ^ 復元(創刊号) 天理教熱田分教会サイト
  11. ^ 当時の家 天理刻限サイトより
  12. ^ 当時の中山家 天理刻限サイトより
  13. ^ 当時、中山みき(78歳)。示された場所は、立教の元一日に初めて教祖に神がお下がりになった場所と一致した。
  14. ^ 当時の家 天理刻限サイトより
  15. ^ 改訂 天理教事典 681ページ
  16. ^ こどもおぢばがえり こどもおぢばがえり公式サイトより
  17. ^ 天理教「修養科案内」(2005)
  18. ^ 天理教ホームページ - おさづけの理
  19. ^ 日本の10大新宗教 島田裕己著より
  20. ^ 天啓のゆくえ―宗教が分派するとき 弓山達也
  21. ^ かつては金光教の名前に由来する岡山県金光町が存在したが、平成の大合併により消滅(現:浅口市)している。
  22. ^ 「天理時報」昭和44年4月27日号の天理健康長寿法(8)
  23. ^ 壱岐交通乗合バス路線図







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