きびつ‐じんじゃ【吉備津神社】
きびつじんじゃ 【吉備津神社】
吉備津神社
吉備津神社 きびつ 御祭神 大吉備津彦大神 ほか八柱の神 鎮座地 岡山県岡山市吉備津931 | ||||||
式内社。崇神朝の四道将軍の一人として吉備地方を平定した吉備津彦命をはじめ吉備氏一族の祖神が祀られています。 大吉備津彦大神は、第七代孝霊天皇の皇子であり、第十代崇神天皇の御代に吉備の国に下られ、温羅という悪者を平らげて平和と秩序を築き、この地に宮をいとなまれて吉備の国の人々のために殖産を教え、仁政を行いました。社伝によれば仁徳天皇が吉備の国に行幸されたときご創建になったもので、後、延喜式の定まるや名神大社に列し、やがて一品の位になられましたので一品吉備津宮、※三備(備前、備中、備後)の一の宮と称せられ、昔から産業の守護神としてまた長寿の守り神として全国の人々から深く信仰されています。 | ||||||
※ 大化改新後、吉備の分割に伴い備中国より備前国、備後国に勧請されたものと考えられます。 備中国一宮 吉備津神社 (岡山県岡山市吉備津) 備前国一宮 吉備津彦神社 (岡山県岡山市一宮1403) 備後国一宮 吉備津神社 (広島県芦品郡新市町宮内) | ||||||
昔話の桃太郎は、吉備津彦命の温羅退治をもとに作られたといわれます。 鬼のモデルになっ た温羅は、百済からやって来た王子でした。性格は荒々し く、凶悪で、身の丈1丈4尺(約4m20cm)もありました。現在の岡山県総社 市にある朝鮮式山城、鬼の城に住み、吉備の国を荒らし回っていました。そこ で大和朝廷は、武勇の誉れ高い吉備津彦命に鬼(温羅)退治を命じたのでした。昔話の中で桃太郎のお供をした犬とキジは、吉備津彦命が設けた役職の犬飼と 鳥飼を努めていた家臣に当たりますが、もう一人がなぜ猿なのかは、わかって いません。捕らえられた温羅は首を切られ、地中深く埋められましたが、13年 間も夜な夜な吉備津彦命の夢枕に立ち続けました。「ワシの首を吉備津神社の かまどの下に埋めてくれ。そうすれば釜をならして世の吉凶を占ってしんぜよ う」この申し出にはじまったのが、鳴釜神事です。御竈殿で行われる釜鳴の神事は、お釜の鳴動の音の大小長短によって吉凶禍福 を卜(ボク)するもので、その神秘なことは古く「本朝神社考」・上田秋成の 『雨月物語』にも紹介された著名なもので、現在でも行われています。 | ||||||
吉備津神社
吉備津神社
吉備津神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/11 15:27 UTC 版)
吉備津神社(きびつじんじゃ)は、岡山県岡山市北区吉備津にある神社。式内社(名神大社)、備中国一宮。旧・社格は官幣中社で、2023年(令和5年)現在は神社本庁の別表神社。
- ^ 2023年(令和5年)現在、備中・備後一宮は「吉備津神社」を名乗るが、備前一宮のみ「吉備津彦神社」を名乗る。
- ^ 『まいられぇ岡山 2016年版』山陽新聞社、2016年、54頁。
- ^ なお備前の吉備津彦神社側では、分霊による創建の伝承はない。
- ^ 皇學館大学出版部『式内社調査報告 第二十二巻 山陽道』。
- ^ 神社公式サイト、「おかやまの文化財」(岡山県サイト)、文化遺産オンラインなどは本殿建立年代を応永32年(1425年)としている。『週刊朝日百科 日本の国宝』29号(朝日新聞社、1997年(平成9年))は、本殿は応永12年(1405年)に完成し、応永32年に屋根の仮葺きを檜皮葺きに改めて正式に遷宮したとする。
- ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』29号(朝日新聞社、1997年(平成9年))pp.2 - 281 - 2 - 283
- ^ a b 吉備津神社本殿及び拝殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
吉備津神社本殿及び拝殿(岡山県ホームページ「おかやまの文化財」)。 - ^ a b 吉備津神社御釜殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
吉備津神社御釜殿(岡山県ホームページ「おかやまの文化財」)。 - ^ a b 吉備津神社回廊(岡山県ホームページ「おかやまの文化財」)。
- ^ a b 吉備津神社北随神門 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
吉備津神社北随身門(岡山県ホームページ「おかやまの文化財」)。 - ^ a b 吉備津神社南随神門 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
吉備津神社南随身門(岡山県ホームページ「おかやまの文化財」)。 - ^ 『岡山県の地名』(吉備津彦神社)項。
- ^ 木造獅子狛犬 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
木造獅子狛犬(岡山県ホームページ「おかやまの文化財」)。 - ^ 備中神楽 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
備中神楽(岡山県ホームページ「おかやまの文化財」)。 - ^ 大太刀 銘備州長船秀幸(岡山県ホームページ「おかやまの文化財」)。
- ^ 大太刀 法光(岡山県ホームページ「おかやまの文化財」)。
- ^ 行道面(岡山県ホームページ「おかやまの文化財」)。
- ^ 高麗版一切経(岡山県ホームページ「おかやまの文化財」)。
- ^ 本墨書連歌(岡山県ホームページ「おかやまの文化財」)。
- ^ 宮内踊(岡山県ホームページ「おかやまの文化財」)。
- ^ “吉備津神社に傷付けた疑い 47歳男を再逮捕―岡山県警”. 時事通信 (2021年2月13日). 2021年2月13日閲覧。
- ^ 伝賀陽氏館跡(岡山県ホームページ「おかやまの文化財」)。
吉備津神社(きびつじんじゃ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 09:42 UTC 版)
「茶柱倶楽部」の記事における「吉備津神社(きびつじんじゃ)」の解説
桃太郎伝説由来の神社。第四十九煎で知り合った、大室里乃(前述)の祖父とはそこで知り合った。
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吉備津神社(福山市新市町宮内、位置)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 01:05 UTC 版)
「備後国」の記事における「吉備津神社(福山市新市町宮内、位置)」の解説
社伝では平安時代に備中国の吉備津神社(岡山県岡山市)から分立したというが、実際には12世紀ごろに創建されたものとみられ、一宮と称されるのは中世以降。
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吉備津神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 17:17 UTC 版)
吉備国、特に吉備津神社と「黍団子」という食べ物のとあいだには、少なくとも17世紀初頭までにはなにかしらのゆかりができていた。これは俳人志田義秀「日本の伝説と童話」(1941年)に紹介される一首一句から判明する。 まず細川幽斎(1610年没)が「備中吉備津宮にて詠める」と詞書で前置きした狂歌「神はきねがならはしなれば先づ搗きて団子にしたき吉備津宮かな」がある。『古今夷曲集』(寛文6年(1666年)刊)に撰されている。この歌での「きね」は「巫女」と「杵」をかけており、黍粉に砕くためか黍餅を練るためかは不詳だが、ともかく「きびだんご」の製法は、杵で搗かれる手順があることが言及される。おそらく参詣者には「きびだんご」がふるまわれたことがあったのだろうが、「当時すでに吉備津神社で売られていた」とまで言い切る書籍もある。 年代は下るが、似た内容の俳句に備中国の信充が吉備で詠んだ「餅雪や日本一の吉備だんご」があり、こちらは『崑山集』(慶安4年(1651年)成立)に所収される。志田は、「日本一の吉備だんご」の一句が大昔から桃太郎にはつきものと信じきっているゆえ、この俳句が桃太郎を指すことは「動かしがたい」と納得しているが、それは誤認であり、実際には「日本一」どころか「きびだんご」すらも、俳句より数十年経た系統本でないと桃太郎の話にあらわれないという考証を小池(後述)が行っている。
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